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商業学校卒業後、[[捕鯨]]基地や[[藤崎 (百貨店)|藤崎呉服店]]、出版社など多くの仕事に従事するかたわら、﹃感触﹄﹃北日本詩人﹄﹃日本詩人﹄﹃詩神﹄﹃児童文学﹄などに詩、童話、評論、エッセイを書き、口誦民話の採録や方言の蒐集、土俗学、[[民俗学]]にも深い関心を持っていた。 石川は1924年︵大正13年︶に出版された[[宮沢賢治]]の詩集﹃[[春と修羅#詩集﹃春と修羅﹄︵第一集︶|春と修羅]]﹄に夢中となる。自身が編集する﹃北日本詩人﹄に、賢治と交友のある森佐一︵後の[[森荘已池]]︶が寄稿したことで森との交流が発生し、翌年の1925年︵大正14年︶末に森の案内により[[花巻川口町|花巻]]の賢治を訪問した<ref name="akama">{{Cite journal|和書|author=赤間亜生|title=学芸員資料ノート 賢治と善助をめぐる書簡|journal=文学館ニュース|issue=5|publisher=[[仙台文学館]]|date=2002-03-31|pages=6-7|url=https://www.sendai-lit.jp/login/wp-content/uploads/2020/04/news005.pdf|format=PDF}}</ref>。このとき石川は賢治から﹁﹃座敷童子﹄のお話を聞いた﹂と、書き残した<ref name="akama"/>{{Efn2|賢治はこの少し後、1926年2月に童話﹁[[ざしき童子のはなし]]﹂を雑誌﹃[[月曜 (文芸雑誌)|月曜]]﹄に発表している{{Sfn|堀尾青史|1991|p=185}}。}}。初対面であるのに 石川は、雑誌﹃児童文学﹄を主宰、編集した[[佐藤一英]]に賢治を勧め、佐藤からの依頼により賢治は﹃児童文学﹄に﹃[[北守将軍と三人兄弟の医者]]﹄と﹃[[グスコーブドリの伝記]]﹄を寄稿した{{Sfn|堀尾青史|1991|p=385}}{{Efn2|﹃年譜 宮沢賢治伝﹄の著者の[[堀尾青史]]は佐藤一英に宮沢賢治の﹃児童文学﹄への寄稿の経緯について直接聞いており、佐藤一英は﹁石川善助からおしえられ、﹃[[注文の多い料理店#短編集﹃注文の多い料理店﹄|注文の多い料理店]]﹄を読んで感心し、何枚でも自由に書いてくれと頼んだ﹂と答えたという<ref>堀尾青史﹁ふたりの詩人 ―善助と猶吉―﹂﹃児童文学﹄復刻版別冊、アリス館、1984年、p.82 しかし、1932年6月、[[東京府]][[大森町 (東京府)|大森町]]︵現・[[東京都]][[大田区]][[大森 (大田区)|大森]]︶で31歳の若さで不慮の死を遂げた。当時、石川は[[草野心平]]宅の2階に仮寓していた{{Sfn|堀尾青史|1991|pp=403-404}}。死因は、泥酔の末に[[京浜東北線]]の線路を歩行中、側溝に転落したことによる[[溺死]]だった<ref name="taihaku"/>{{Sfn|堀尾青史|1991|pp=403-404}}。遺体は死去から10日後に発見された<ref name="taihaku"/>。 16行目:
草野の記述によると、遺体は草野宅の石川の部屋に運び込まれて通夜が営まれ、参列した[[逸見猶吉]]、宍戸儀一、[[吉田一穂]]、[[福士幸次郎]]らは霊前で詩の談義を交わしていたという{{Sfn|堀尾青史|1991|pp=403-404}}。[[牛込]]の寺院で葬儀が営まれた後、両親ら遺族によって列車で遺骨は仙台に運ばれた{{Sfn|堀尾青史|1991|pp=403-404}}。 死後、草野心平、逸見猶吉、宍戸儀一らの手により詩集﹃亜寒帯﹄が刊行される。また、やはり遺稿として随筆集﹃鴉射亭随筆﹄が刊行された。﹃鴉射亭随筆﹄の刊行に際し、宮沢賢治は刊行前に購入代金を小為替で関係者に送り、賢治が死去する約2か月前に賢治の手元に届いた<ref name="akama"/>{{Efn2|{{要出典範囲|1933年︵昭和8年︶7月27日付けの賢治から石川の実弟である石川善二郎あての書簡の下書きでは善二郎から﹃鴉射亭随筆﹄を4部頒布されたことに対してのお礼が書かれている。|date=2022-09}}賢治はこの本を母木光︵後の儀府成一︶に頒けたが、それに対し母木光がその代金を送ってきたため、賢治から出版した鈴木碧へ母木光の手紙の一部を添付し、損を覚悟で出版したことに対する好意という形でそのお金を送っており、その顛末は1933年︵昭和8年︶8月23日付けの母木光宛の賢治の書簡に書かれている<ref>{{Cite book|和書|title=校本宮澤賢治全集|volume=13|publisher=[[筑摩書房]]|date=1974|page=699}}</ref>。}}。同書には賢治の﹁石川善助を弔む﹂が附録として掲載された{{Sfn|堀尾青史|1991|pp=403-404}}。このほかに刊行された遺稿集として﹃石川善助童謡集﹄がある。 1958年(昭和33年)には、仙台市[[太白区]]内の愛宕神社に詩「化石を拾ふ」を刻んだ文学碑が建立された<ref name="taihaku"/>。
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== 著書 ==
いずれも没後の刊行
*『鴉射亭随筆』桜井絵葉書店{{Efn2|現在の藤崎近くにあった[[ブロマイド]]等を扱う店舗で、この本の編集に当たった「鴉射亭友達会」の集合場所となっていた<ref name="akama"/>。}}、1933年{{Efn2|1995年に今野印刷から『鴉射亭随筆 復刻版』が刊行されたが現在絶版となっている。}}
*『亜寒帯』 1936年<ref group="注">出版されて以降、1955年に創元社の「現代日本詩人全集」第13巻に詩集の全文が掲載され、1970年に名著刊行会から復刻版が出たが長く絶版となっていた。善助の没後90年になる2022年6月27日に「あるきみ屋」から文庫が刊行された。</ref>
*『どろぼはったぎ 石川善助童謡集』(おてんとさんの会) 1972年
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*{{Cite book|和書|author=堀尾青史|authorlink=堀尾青史|title=年譜 宮沢賢治伝|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|series=[[中公文庫]]|date=1991-02-10|isbn=4-12-201782-3}}
== 外部リンク ==
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* {{青空文庫著作者|1787|石川 善助}}
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[[Category:1901年生]]
[[Category:1932年没]]
[[Category:仙台市出身の人物]]
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[[Category:溺死した人物]]
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石川 善助︵いしかわ ぜんすけ、1901年︵明治34年︶5月16日 - 1932年︵昭和7年︶6月27日︶は、日本の詩人。
生涯[編集]
宮城県仙台市国分町芭蕉の辻︵現・青葉区内︶に生まれる[1]。生家は小間物問屋だった[1]。幼少時に柿の木から落下する事故に遭い、片足が不自由となる[2]。1914年︵大正3年︶に市立仙台商業学校︵現・仙台市立仙台商業高等学校︶へ入学。商業学校時代から詩作を始める。一方、入学翌年に生家が破産した[1]。 商業学校卒業後、捕鯨基地や藤崎呉服店、出版社など多くの仕事に従事するかたわら、﹃感触﹄﹃北日本詩人﹄﹃日本詩人﹄﹃詩神﹄﹃児童文学﹄などに詩、童話、評論、エッセイを書き、口誦民話の採録や方言の蒐集、土俗学、民俗学にも深い関心を持っていた。 石川は1924年︵大正13年︶に出版された宮沢賢治の詩集﹃春と修羅﹄に夢中となる。自身が編集する﹃北日本詩人﹄に、賢治と交友のある森佐一︵後の森荘已池︶が寄稿したことで森との交流が発生し、翌年の1925年︵大正14年︶末に森の案内により花巻の賢治を訪問した[3]。このとき石川は賢治から﹁﹃座敷童子﹄のお話を聞いた﹂と、書き残した[3][注 1]。初対面であるのにおそろしく話が盛り上がったと後年、森は回想している[5]。石川の賢治への傾倒は、対面によって拍車がかかり、1928年に同人誌に書いた文章では﹁宮沢さんの行為作品、あの巨いなるものには心から打たれる打たれる﹂と記した[3]。 石川は、雑誌﹃児童文学﹄を主宰、編集した佐藤一英に賢治を勧め、佐藤からの依頼により賢治は﹃児童文学﹄に﹃北守将軍と三人兄弟の医者﹄と﹃グスコーブドリの伝記﹄を寄稿した[6][注 2]。賢治には1932年︵昭和7年︶1月にも自宅を訪問して面会している[8]。 しかし、1932年6月、東京府大森町︵現・東京都大田区大森︶で31歳の若さで不慮の死を遂げた。当時、石川は草野心平宅の2階に仮寓していた[2]。死因は、泥酔の末に京浜東北線の線路を歩行中、側溝に転落したことによる溺死だった[1][2]。遺体は死去から10日後に発見された[1]。没後[編集]
草野の記述によると、遺体は草野宅の石川の部屋に運び込まれて通夜が営まれ、参列した逸見猶吉、宍戸儀一、吉田一穂、福士幸次郎らは霊前で詩の談義を交わしていたという[2]。牛込の寺院で葬儀が営まれた後、両親ら遺族によって列車で遺骨は仙台に運ばれた[2]。 死後、草野心平、逸見猶吉、宍戸儀一らの手により詩集﹃亜寒帯﹄が刊行される。また、やはり遺稿として随筆集﹃鴉射亭随筆﹄が刊行された。﹃鴉射亭随筆﹄の刊行に際し、宮沢賢治は刊行前に購入代金を小為替で関係者に送り、賢治が死去する約2か月前に賢治の手元に届いた[3][注 3]。同書には賢治の﹁石川善助を弔む﹂が附録として掲載された[2]。このほかに刊行された遺稿集として﹃石川善助童謡集﹄がある。 1958年︵昭和33年︶には、仙台市太白区内の愛宕神社に詩﹁化石を拾ふ﹂を刻んだ文学碑が建立された[1]。著書[編集]
いずれも没後の刊行脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 賢治はこの少し後、1926年2月に童話﹁ざしき童子のはなし﹂を雑誌﹃月曜﹄に発表している[4]。
(二)^ ﹃年譜 宮沢賢治伝﹄の著者の堀尾青史は佐藤一英に宮沢賢治の﹃児童文学﹄への寄稿の経緯について直接聞いており、佐藤一英は﹁石川善助からおしえられ、﹃注文の多い料理店﹄を読んで感心し、何枚でも自由に書いてくれと頼んだ﹂と答えたという[7]。
(三)^ 1933年︵昭和8年︶7月27日付けの賢治から石川の実弟である石川善二郎あての書簡の下書きでは善二郎から﹃鴉射亭随筆﹄を4部頒布されたことに対してのお礼が書かれている。[要出典]賢治はこの本を母木光︵後の儀府成一︶に頒けたが、それに対し母木光がその代金を送ってきたため、賢治から出版した鈴木碧へ母木光の手紙の一部を添付し、損を覚悟で出版したことに対する好意という形でそのお金を送っており、その顛末は1933年︵昭和8年︶8月23日付けの母木光宛の賢治の書簡に書かれている[9]。
(四)^ 現在の藤崎近くにあったブロマイド等を扱う店舗で、この本の編集に当たった﹁鴉射亭友達会﹂の集合場所となっていた[3]。
(五)^ 1995年に今野印刷から﹃鴉射亭随筆 復刻版﹄が刊行されたが現在絶版となっている。
(六)^ 出版されて以降、1955年に創元社の﹁現代日本詩人全集﹂第13巻に詩集の全文が掲載され、1970年に名著刊行会から復刻版が出たが長く絶版となっていた。善助の没後90年になる2022年6月27日に﹁あるきみ屋﹂から文庫が刊行された。