「立憲国民党」の版間の差分
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'''立憲国民党'''(りっけんこくみんとう)は、[[日本]]の[[明治]]末期・[[大正]]時代の[[政党]]。 |
'''立憲国民党'''(りっけんこくみんとう)は、[[日本]]の[[明治]]末期・[[大正]]時代の[[政党]]。 |
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[[立憲政友会]]が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、[[1910年]](明治43年)3月14日 [[立憲改進党]]の系譜につながる[[憲政本党]]を中心に[[又新会|又新(ゆうしん)会]]と[[戊申倶楽部]]の3派(代議士は |
[[立憲政友会]]が藩閥政府と妥協したことに反発した、反政友会各派が合同運動を繰り広げるが、[[1910年]](明治43年)3月14日 [[立憲改進党]]の系譜につながる[[憲政本党]]を中心に[[又新会|又新(ゆうしん)会]]と[[戊申倶楽部]]の3派(創立直後の第27回[[帝国議会]]開会時の代議士は93名<ref>玉井清「第一六回総選挙における政党合同の影響について-革新倶楽部系候補者の動向を中心に-」2012年3月(『法学研究 85-3』慶應義塾大学法学研究会 )</ref>)が合同して立憲国民党が結党された。 |
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党首は不在で、憲政本党の[[大石正巳]]、[[犬養毅]]、又新会の[[島田三郎]]、[[河野広中]]、戊申倶楽部の[[片岡直温]]、[[仙石貢]]らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して[[民党]]の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする﹁非改革派﹂と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る﹁改革派﹂が対立していた。[[1911年]]︵明治44年︶1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。[[第2次桂内閣]]や[[第2次西園寺内閣]]では[[南北朝正閏問題]]や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。
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党首は不在で、憲政本党の[[大石正巳]]、[[犬養毅]]、又新会の[[島田三郎]]、[[河野広中]]、戊申倶楽部の[[片岡直温]]、[[仙石貢]]らが中心となって党の運営に当たったが、実際は、犬養を中心して[[民党]]の伝統を守って政府と対立する姿勢を鮮明とする﹁非改革派﹂と、大石・島田・河野ら政府との妥協を図る﹁改革派﹂が対立していた。[[1911年]]︵明治44年︶1月19日の党大会で党首に替わる常務委員を設置して犬養・河野・大石を選出した。[[第2次桂内閣]]や[[第2次西園寺内閣]]では[[南北朝正閏問題]]や行財政改革などで政府の姿勢を追及する。
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[[1913年]]︵大正2年︶の[[大正政変]]では、[[桂太郎]]の新党運動に対して片岡直温が呼応、犬養が片岡を[[除名]]処分にしたところ、これをきっかけに大石・島田・河野ら改革派がこれに反発して脱党し、 |
[[1913年]]︵大正2年︶の[[大正政変]]では、[[桂太郎]]の新党運動に対して片岡直温が呼応、犬養が片岡を[[除名]]処分にしたところ、これをきっかけに大石・島田・河野ら改革派がこれに反発して脱党し、桂の[[立憲同志会]]に参加するものが多数出て勢力は半減︵分裂直後の第31回[[帝国議会]]開会時の代議士は41名︶した<ref>なお、島田は後に憲政会が[[尾崎行雄]]を除名したのに抗議して憲政会を離党、その後犬養とともに革新倶楽部結成を呼びかけて事実上の復党を果たす。</ref>。以後は犬養が党首となり、普通選挙法実現を掲げるなどして[[護憲運動]]を指導し民党として活躍した。しかし、立憲政友会や[[立憲同志会]]︵後に[[憲政会]]︶の攻勢を受けるようになり党勢は衰退する。特に大石らかつての改革派が憲政会を結成した時に、国民党が共同で[[内閣不信任案]]の提出を呼びかけながら土壇場で政友会ともども憲政会を叩いた上で[[第13回衆議院議員総選挙]]に持ち込んだ手法は、結果的には国民党の議席回復につながったといえ、物議を醸した。[[1918年]]︵大正7年︶6月20日に分裂以後に唯一の常務委員であった犬養を総理︵党首︶とし、[[幹事長]]に[[鈴木梅四郎]]、[[政務調査会長]]に[[大口喜六]]、総務︵1名︶に[[関直彦]]を任命した。
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[[1920年]](大正9年)[[第14回衆議院議員総選挙]]では29名当選と振るわず、[[1922年]](大正11年)9月1日 解党した。 犬養は11月に[[革新倶楽部]]を結成し次の政局に備えることになる。 |
[[1920年]](大正9年)[[第14回衆議院議員総選挙]]では29名当選と振るわず、[[1922年]](大正11年)9月1日 解党した。 犬養は11月8日に[[革新倶楽部]]を結成(結党時は46名)し次の政局に備えることになる。 |
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==脚注== |
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