董明徳
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董明徳 Dong Mingde | |
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生誕 |
1911年1月1日![]() |
死没 |
1978年9月16日(67歳没) 台湾 |
所属組織 |
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軍歴 | 1931 - 1964? |
最終階級 | 空軍中将 |
董明徳 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 董 明德 |
簡体字: | 董 明德 |
拼音: | Dǒng Míngdé |
ラテン字: | Tung Ming-Te |
和名表記: | とう めいとく |
発音転記: | ドォン ミィンドゥー |
董 明徳︵とう めいとく / ドン・ミンドゥ、1911年1月1日[1] - 1978年9月16日︶は中華民国空軍の軍人。日中戦争時の戦闘機操縦士でエース・パイロット。遼寧省海城出身。最終階級は空軍中将。
経歴
1931年5月、南京の中央軍官学校︵第9期︶に入校。その後、32年9月に劉粋剛、李桂丹らとともに中央航空学校の第2期生として転学。1934年2月1日に卒業した。翌1935年9月7日、空軍少尉任官[2]。1937年8月の第二次上海事変勃発時、董は空軍第5大隊第25中隊︵長‥胡庄如︶の副隊長を務めていた。 8月14日、上海の日本軍地上部隊を攻撃した帰途、悪天候により杭州の筧橋飛行場︵第4大隊基地︶に不時着した。翌8月15日未明、根拠地の揚州へ帰還するため乗機のカーチス・ホークⅢのエンジンを暖めていたところ、日本海軍の艦攻隊が来襲した。すぐに単機で離陸した董は、八九式艦上攻撃機2機を発見、急襲して2機とも撃墜した[3]。 8月21日未明、揚州飛行場へ木更津海軍航空隊の九六式陸上攻撃機6機︵2個小隊︶が来襲、爆撃を受けた直後に発進した董は入佐小隊を追撃し、1機︵毛利健栄2空曹機︶を撃墜した。董はさらにもう1機を追撃したが、乗機がオーバーブーストによりエンジン停止したため不時着を強いられた[4]。 戦闘によって中国空軍が戦闘機を消耗してしまうと、董は蘭州でソ連製戦闘機ポリカルポフ I-16を受け取り、12月1日に南京へ帰還した。第4大隊長高志航が戦死し李桂丹が大隊長となると、後任として董が第21中隊長に任命された。12月2日に南京の防空戦に参加、その後単機で出撃し大茅山や宣城で南京へ向かって進撃する日本陸軍部隊を機銃掃射して大きな損害を与えた[5]。 南京陥落後は王家墩飛行場に展開し漢口防空戦に従事。1938年2月18日13時、蚌埠飛行場を発した一連空の九六陸攻15機︵木更津空9機、鹿屋空6機︶と援護隊の九六艦戦11機︵第十二航空隊の5機、第十三航空隊6機、長‥金子隆司大尉︶が漢口上空に飛来。董は中隊の10機を率いて迎撃に上がり交戦。この戦闘で第4大隊は大隊長の李桂丹以下8機のI-152が撃墜されたが、I-16を使用する21中隊では1機の損害も出さず、中隊全体で5機を撃墜する戦果を挙げた。また、董も1機を共同撃墜[6]。 4月29日の正午前後、日本海軍第一・第二連合航空隊の45機︵12空の小園安名少佐率いる九六式艦戦27機、および13空の棚町整少佐率いる九六式陸攻18機が襲来した時、日本軍機の来襲直前に離陸して高度をとると、I-16による急降下攻撃で第二連合航空隊︵12空︶の九六式艦戦1機を撃墜した[7]。8月3日、2連空の陸攻18機、艦戦21機が襲来し、4個編隊で迎撃することとなった。当時副大隊長だった董は第4大隊6機、第5大隊第26中隊4機からなる第2編隊を率いて簰州方面から向かい、金口で交戦[8]。漢口が10月27日に陥落すると、中国空軍は重慶、成都、蘭州に基地を移した。第4大隊長︵上校︶となった董は、成都に部隊を集めて訓練を行った。 1939年春、董明徳は重慶を守るために、戦闘機隊を連れて成都から重慶郊外の広陽壩飛行場へ進出することを願い出た。これは三国時代の諸葛孔明の故事にならい、俗に﹁天空の出師の表﹂と呼ばれた。そして、精錬の完了した第4大隊の戦闘機27機は成都から広陽壩へ進出し重慶の防空についた[9]。5月4日、日本海軍の九六式陸攻45機が重慶市街に爆撃し、第4大隊のI-16、I-152が迎撃戦を展開した。この戦闘で九六式陸攻2機が撃墜されたが、董はすべて部隊の協同撃墜とした。実際には董がI-16で1機を撃墜していたが、董は部隊の士気を鼓舞するためスコアを譲って協同撃墜扱いにしたとされる[10]。 1939年6月[11]、広陽壩飛行場へアメリカ製新戦闘機カーチス・ライト CW-211機がビルマを経由して空輸されてきた。董はCW-21に試乗してテスト飛行をおこない、初めて扱うフラップを降ろして着地を試みたが、接地点を誤って転倒し重傷を負ってしまった[12]。この事故で董は現役パイロットからは引退に追い込まれた。董明徳の撃墜数は、中国空軍の記録では7機となっており、日本側の記録で確認できるものは4機がある。中山雅洋によると、中国側の戦記から判断すれば、実際には10機程度に達する可能性があるとしている[13]。 1941年、軍官学校生徒をアメリカのウィリアムズ陸軍基地に留学させることになると、総領隊の譚以徳をはじめ、劉宗武 、雷炎均らと領隊を務める[14]。 第二次世界大戦後の1946年、空軍総司令部が設立されると7月に第五署副署長、12月に第三署副署長[15][16]。同年に第2軍区司令部参謀長[17]。国共内戦後は台湾へ渡り、空軍指揮参謀学校校長[18]、訓練司令部司令官、空軍総司令部政治部︵1963年1月に政治作戦部に改称[19]︶主任などを歴任した[20][21]。 晩年は心臓を患っており、1978年9月16日未明に病没した[22]。栄典
●六等雲麾勲章 - 1943年10月10日[23] ●洛書勲章 - 1947年4月22日[24] ●乾元勲章 - 1948年8月14日[25] ●五等宝鼎勲章 - 1949年8月14日[26]親族
日中戦争期の中国空軍軍人には親族も軍に加わった者が多いが、甥の董国仁によれば董明徳は特にその傾向が強く、兄弟がいずれも陸空の軍人となっている。また配偶者やその親族も空軍関係者が多いとされる[27]。- 長兄:成徳 - 航空委員会関係者。妻の姉妹の夫に劉士杰(7期、空軍中将)
- 国仁:成都空小卒業後、空軍教官。退役後は書道家。中華藍天藝文協會會長[28]。
- 保羅:空軍兵士
- 国強:空軍機械学校卒業
- 国仁:成都空小卒業後、空軍教官。退役後は書道家。中華藍天藝文協會會長[28]。
- 次兄:振徳 - 陸軍中校
- 三兄:世徳 - 空軍整備士
- 樹徳 - 空軍軍校14期とされる(卒業名簿に記載なし[29])
- 姉あるいは妹 - 整備士の緒恒(姓不明)と結婚。
注釈
脚注
(一)^ 軍事委員會銓敍廳. “陸海空軍軍官佐任官名簿第4巻 part4” (中国語). 臺灣華文電子書庫. pp. 202. 2018年2月27日閲覧。
(二)^ “国民政府令 二十四年九月七日” (PDF) (中国語). 中華民国政府官職資料庫. 2018年4月15日閲覧。
(三)^ 中山 2007, pp. 195–196.
(四)^ 中山 2007, pp. 206–208.
(五)^ 中山 2007, pp. 311–315.
(六)^ 朱力揚﹃1945請記得他們‥中國空軍抗戰記憶﹄黎明文化事業公司、2015年、205頁。ISBN 978-957-16-0862-4。
(七)^ 中山 2007, p. 334.
(八)^ “狄曾益” (中国語). 保國衛民- 國軍英雄- 狄曾益. 2019年7月16日閲覧。
(九)^ 中山 2007, p. 344.
(十)^ 中山 2007, pp. 352–354.
(11)^ Raymond Cheung (2015). Aces of the Republic of China Air Force. Osprey Publishing. pp. 20. ISBN 978-1-4728-0561-4
(12)^ 中山 2007, pp. 355–356.
(13)^ ﹃第2次大戦 世界の戦闘機隊﹄、311頁。
(14)^ “空軍第五地區司令 譚以德” (中国語). 中國飛虎研究學會. 2019年7月16日閲覧。
(15)^ “戰爭罪犯的名單” (中国語). 中国共産党新聞網. (2010年4月26日) 2016年10月19日閲覧。
(16)^ 張朋園、沈懐玉﹃國民政府職官年表(一)﹄、2015年。ISBN: 9789860459081 175頁
(17)^ 盧克彰編著 (1974). 空軍建軍史話. 空軍總部政治作戰部. pp. 288
(18)^ “歴任院長” (中国語). 国防大学空軍指揮参謀学院. 2016年10月19日閲覧。
(19)^ 林玉萍﹃75風華-空軍航空技術學院七十五週年校慶特刊﹄2011 p.49
(20)^ http://www.asmrw.net/danganmx.asp?mrid=1807
(21)^ 民國52年大事記
(22)^ “董故空军中将明德事略” (中国語). 台湾大陆同乡会文献数据库. 2019年7月16日閲覧。
(23)^ “国民政府広報渝字第612号” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2018年10月21日閲覧。
(24)^ “国民政府広報第2805号” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月15日閲覧。
(25)^ “総統府広報第75号” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年10月7日閲覧。
(26)^ “総統府広報第238号” (PDF) (中国語). 政府広報資訊網. 2017年12月31日閲覧。
(27)^ “航校 前六期的﹃東北人﹄” (中国語). 空小網友會. 2018年3月30日閲覧。
(28)^ “姓名人物字畫大師董國仁” (中国語). 北美文芸社. 2018年3月30日閲覧。
(29)^ “空軍軍官學校第十四期航空班學生名冊” (中国語). 中國飛虎研究學會. 2018年3月30日閲覧。
参考文献
- 中山雅洋『中国的天空(上)沈黙の航空戦史』大日本絵画、2007年。ISBN 978-4-499-22944-9。
- 秦郁彦 / 航空情報編集部 『第2次大戦 世界の戦闘機隊』― 付・エース列伝、酣灯社、1987年。ISBN 978-4873570105
軍職 | ||
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先代 郭漢廷 |
空軍第4大隊長 4代: - 1939.6 |
次代 劉志漢 |
先代 魏崇良 |
空軍指揮参謀学校校長 第10代:1956.12.01 - 1957.07.15 |
次代 劉志漢 |
先代 謝莽 |
訓練司令部司令官 第6代:1957.07.15 - 1962 |
次代 魏崇良 |
先代 ? |
空軍政戦主任 第?代:1962 - 1964.3? |
次代 梁孝煌 |