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'''藤原 能信'''︵ふじわら の よしのぶ、[[長徳]]元年︵[[995年]]︶ - [[治暦]]元年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]︵[[1065年]][[3月18日]]︶︶は[[平安時代]]の[[公卿]]・廷臣。[[大納言|権大納言]]・[[春宮大夫]]。[[藤原道長]]の五男で母は[[左大臣]][[源高明]]の女・[[源明子|明子]]︵めいし︶。
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'''藤原 能信'''︵ふじわら の よしのぶ、[[長徳]]元年︵[[995年]]︶ - [[治暦]]元年[[2月9日 (旧暦)|2月9日]]︵[[1065年]][[3月18日]]︶︶は[[平安時代]]の[[公卿]]・廷臣。[[大納言|権大納言]]・[[春宮大夫]]。[[藤原道長]]の五男で母は[[左大臣]][[源高明]]の女・[[源明子|明子]]︵あきらこ︶。
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2008年1月21日 (月) 09:39時点における版
藤原 能信︵ふじわら の よしのぶ、長徳元年︵995年︶ - 治暦元年2月9日︵1065年3月18日︶︶は平安時代の公卿・廷臣。権大納言・春宮大夫。藤原道長の五男で母は左大臣源高明の女・明子︵あきらこ︶。
略歴
父・道長に似て勝気な性格だったらしく、15歳の時に敦良親王︵後の後朱雀天皇︶誕生を祝う儀式中に同席した藤原伊成︵故藤原義懐の次男︶と喧嘩をした挙句、加勢した能信の従者によって一方的に負傷した伊成が憤慨して出家するという事件を起こしている。だが、その勝気な態度は次第に異母兄藤原頼通への対抗意識に変化していった。
そもそも、道長には主な夫人が二人いた。頼通・教通を生んだ源倫子︵左大臣源雅信の娘︶と能信の母・源明子である。だが、倫子は道長の最初の妻であると同時に当時の現職大臣の娘であり、道長の出世への助けになったのに対し、明子の父は同じ左大臣でも既に故人でしかも安和の変で流罪になった人物であった。そのため、倫子所生の子供達は嫡子扱いを受けて出世を遂げたのに対して、明子所生の子供達はそれより下の出世に限定させられていた。能信の他の兄弟は頼通と協調して自己の出世を図ろうとしたのに対して、能信はそれを拒絶して公然と頼通と口論して父の怒りを買うことすらあったという。このため、1021年︵治安元年︶の正二位権大納言昇進を最後に官位の昇進を見ることはなかった。
1032年︵長元5年︶、異母弟・教通の子信長の元服に際して加冠役を務める。1037年︵長元10年︶、後朱雀天皇の中宮︵後に皇后︶に禎子内親王︵後の陽明門院︶が決まると、その側近である中宮大夫に任じられる。実は既に頼通の養女・嫄子が天皇の新しい后として宮中に入る事が確定しているにも関らず、あえてその対立陣営のトップに立ったのである。そして禎子内親王所生の尊仁親王︵後の後三条天皇︶の後見人を引き受けることになった。やがて1045年︵寛徳2年︶に後朱雀天皇が重態に陥ると、能信は天皇に懇願して、後を継ぐ後冷泉天皇︵親王の異母兄︶に対して﹁尊仁親王を皇太弟にするように﹂という遺言を得るのである。
だが、世間では﹁後冷泉天皇には頼通・教通兄弟がそれぞれ自分の娘を后にしており、男子が生まれれば皇太子は変更されるだろう﹂と噂され、尊仁親王やその春宮大夫となった能信への眼は冷たいものがあり、親王が成人しても后の候補者が決まらなかった。やむを得ず自分の養女︵妻祉子の兄である藤原公成の娘︶である藤原茂子を后にして﹁実父の官位が低すぎる﹂という糾弾を能信が引き受けることで辛うじて﹁皇太子妃不在﹂という異常事態を阻止したのである。
以後、20年にわたり春宮大夫として尊仁親王の唯一の支持者であり続けた能信は親王の即位を見ることもなく、しかも右大臣藤原頼宗︵能信の同母兄︶の急死で後任大臣への道が開かれたその僅か6日後に、その生涯を閉じてしまうのである。
だが、その3年後に後冷泉天皇が男子を遺さずに死去すると、尊仁親王が後三条天皇として即位、続いて茂子の息子である白河天皇が即位した。後三条天皇は能信の養子で養父の死後に春宮大夫を継いだ藤原能長︵実父は頼宗︶を内大臣に抜擢した。また白河天皇は能信に太政大臣の官を贈り、必ず﹁大夫殿﹂と呼んで生涯尊敬の念を忘れる事はなかったという。
能信に摂政・関白への野心があったかは定かではない。だが、後三条・白河天皇による政治とその後の院政の開始は、能信の人生に暗い影を落とし続けてきた摂関家による摂関政治を終焉に導いたのは確かである。ちなみに、少数説であるが、道長とその一族の歴史を鋭い視点で描いた﹁大鏡﹂の作者を能信とする説もある。
藤原能信を題材とした小説