「足利安王丸」の版間の差分
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足利春王丸 2015年4月29日 (水) 11:15 の版を元に、一部追記して作成 |
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父の持氏が[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]に反抗した末に、[[永享]]11年︵[[1439年]]︶に自害に追い込まれる︵[[永享の乱]]︶と、兄の春王丸とともに[[下野国]][[日光山]]に潜伏する。後に密かに[[結城氏朝]]に居城[[結城城]]に匿われ、義教が自身の子を関東公方に就けようとしたことに反対する氏朝に擁立され籠城するが︵[[結城合戦]]︶、[[上杉持房]]を総大将とする幕府軍により落城。春王丸とともに[[長尾実景|長尾因幡守]]に捕らえられ、京都護送中に義教の命令により兄とともに[[美濃国]][[垂井宿]]の[[金蓮寺]]にて殺害される。享年11<ref>﹃[[師郷記]]﹄では享年10、﹃古河公方系図﹄では享年12、﹃永享記﹄では享年13。</ref>。
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父の持氏が[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]に反抗した末に、[[永享]]11年︵[[1439年]]︶に自害に追い込まれる︵[[永享の乱]]︶と、兄の春王丸とともに[[下野国]][[日光山]]に潜伏する。後に密かに[[結城氏朝]]に居城[[結城城]]に匿われ、義教が自身の子を関東公方に就けようとしたことに反対する氏朝に擁立され籠城するが︵[[結城合戦]]︶、[[上杉持房]]を総大将とする幕府軍により落城。春王丸とともに[[長尾実景|長尾因幡守]]に捕らえられ、京都護送中に義教の命令により兄とともに[[美濃国]][[垂井宿]]の[[金蓮寺]]にて殺害される。享年11<ref>﹃[[師郷記]]﹄では享年10、﹃古河公方系図﹄では享年12、﹃永享記﹄では享年13。</ref>。
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辞世の |
辞世の歌は「身の行衛 定めなければ 旅の空 命も今日に 限ると思へば」。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2016年2月18日 (木) 08:35時点における版
足利安王丸 | |
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時代 | 室町時代 |
生誕 | 永享3年(1431年)? |
死没 | 嘉吉元年5月16日(1441年6月5日) |
幕府 | 室町幕府 |
氏族 | 足利氏 |
父母 | 父:足利持氏 |
兄弟 | 義久、春王丸、安王丸[1]、成氏、成潤ほか |
足利 安王丸︵あしかが やすおうまる︶は、室町時代中期の人物。関東公方足利持氏の子。
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Graves_of_Haru%C5%8D_and_Yasu%C5%8D.jpg/220px-Graves_of_Haru%C5%8D_and_Yasu%C5%8D.jpg)
春王・安王の墓と辞世の句碑︵岐阜県不破郡垂井町︶
父の持氏が室町幕府将軍足利義教に反抗した末に、永享11年︵1439年︶に自害に追い込まれる︵永享の乱︶と、兄の春王丸とともに下野国日光山に潜伏する。後に密かに結城氏朝に居城結城城に匿われ、義教が自身の子を関東公方に就けようとしたことに反対する氏朝に擁立され籠城するが︵結城合戦︶、上杉持房を総大将とする幕府軍により落城。春王丸とともに長尾因幡守に捕らえられ、京都護送中に義教の命令により兄とともに美濃国垂井宿の金蓮寺にて殺害される。享年11[2]。
辞世の歌は﹁身の行衛 定めなければ 旅の空 命も今日に 限ると思へば﹂。
略歴
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e5/Graves_of_Haru%C5%8D_and_Yasu%C5%8D.jpg/220px-Graves_of_Haru%C5%8D_and_Yasu%C5%8D.jpg)
脚注
参考文献・史料
- 渡辺世祐『関東中心 足利時代之研究』(新人物往来社、1971年)
- 『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社、1985年) 26頁
- 『新訂寛政重修諸家譜』2巻
- 『永享記』(続群書類従所収)
- 『喜連川判鑑』(続群書類従所収)
- 『古河公方系図』(続群書類従所収)
- 『関東合戦記』(続群書類従所収)
- 『北条記』(続群書類従所収)
- 『師郷記』(史料纂集古記録編)
外部リンク
- 春王・安王の墓 岐阜県公式サイト