コンテンツにスキップ

「足利義明」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
31行目: 31行目:


義明の死で小弓公方は滅亡したが、次男の[[足利頼純]](頼淳)は初めは[[里見義堯]]・[[里見義弘|義弘]](義弘の正室[[青岳尼]]は義明の娘)、後に[[豊臣秀吉]]の庇護を受けて存続することができた。

義明の死で小弓公方は滅亡したが、次男の[[足利頼純]](頼淳)は初めは[[里見義堯]]・[[里見義弘|義弘]](義弘の正室[[青岳尼]]は義明の娘)、後に[[豊臣秀吉]]の庇護を受けて存続することができた。


== 参考論文 ==

*[[佐藤博信]]「小弓公方足利氏の成立と展開―特に房総諸領主との関係を中心に―」(『歴史学研究』635号、1992年)



{{DEFAULTSORT:あしかか よしあき}}

{{DEFAULTSORT:あしかか よしあき}}


2015年3月21日 (土) 01:24時点における版

 

凡例

足利義明
時代 室町時代後期(戦国時代
生誕 不詳
死没 天文7年10月7日1538年10月29日
改名 空然 → 宗済 → 足利義明
別名 小弓公方
墓所 千葉県市原市八幡 御墓堂墓地内
官位 右兵衛佐
氏族 足利氏古河公方
父母 父:足利政氏
兄弟 高基義明基頼、ほか
義純頼純雪下等覚院某青岳尼、女子(上杉憲寛妻)、旭山尼
テンプレートを表示

  23


殿

71538


参考論文

  • 佐藤博信「小弓公方足利氏の成立と展開―特に房総諸領主との関係を中心に―」(『歴史学研究』635号、1992年)