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'''鈴木 志郎康'''(すずき しろうやす、[[1935年]][[5月19日]] - )は、詩人。[[東京市]]亀戸生まれ。本名・鈴木康之。 |
'''鈴木 志郎康'''(すずき しろうやす、[[1935年]][[5月19日]] - )は、日本の[[詩人]]。[[東京市]][[江東区]][[亀戸]]生まれ。本名・鈴木康之。 |
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1952年頃から詩を書き始める。1961年、[[早稲田大学]]文学部仏文科卒。在学中の1959年に[[高野民雄]]と雑誌﹁青鰐﹂を刊行。1961年から1977年まで[[日本放送協会|NHK]]に16ミリ映画カメラマンとして勤務。1963年頃から個人映画を作り始める。1964年、[[天沢退二郎]]、[[渡辺武信]]、[[菅谷規矩雄]]、[[藤田治]]、[[彦坂紹男]]、[[秋元潔]]、[[山本道子 (作家)|山本道子]]、[[野沢暎]]、[[高野民雄]]とともに、雑誌﹁[[凶区]]﹂創刊。﹁凶区﹂には、のちに[[金井美恵子]]が加入するが、1971年に廃刊宣言号を出す。鈴木は廃刊以前に脱退。1968年、2冊目の詩集﹃罐製同棲又は陥穽への逃走﹄により[[H氏賞]]受賞。第IV部に﹁処女プアプア﹂が登場、鈴木志郎康といえば﹁プアプア詩﹂と思われていた時期もあった。破壊的な口語表現と[[エログロ]]描写が衝撃を与える。極私的︵きょくしてき︶という言葉は、この頃の鈴木の造語である。しかし、1974年の﹃やわらかい闇の夢﹄は一転平易な言葉で都市の中の個人を描き、それも驚きを持って受け止められたのだった。1971年から1976年まで[[東京造形大学]]非常勤講師。1976年から[[イメージフォーラム]]付属映像研究所講師。1982年から1994年まで早稲田大学文芸科非常勤講師。1990年から[[多摩美術大学]]教授。2002年、詩集﹃胡桃ポインタ﹄で[[高見順賞]]受賞。2006-07年、多摩美大客員教授。2008年﹃声の生地﹄で[[萩原朔太郎賞]]受賞。︵以下の本人サイトを参考にして加筆︶
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1952年頃から詩を書き始める。1961年、[[早稲田大学]]文学部仏文科卒。在学中の1959年に[[高野民雄]]と雑誌﹁青鰐﹂を刊行。1961年から1977年まで[[日本放送協会|NHK]]に16ミリ映画カメラマンとして勤務。1963年頃から個人映画を作り始める。1964年、[[天沢退二郎]]、[[渡辺武信]]、[[菅谷規矩雄]]、[[藤田治]]、[[彦坂紹男]]、[[秋元潔]]、[[山本道子 (作家)|山本道子]]、[[野沢暎]]、[[高野民雄]]とともに、雑誌﹁[[凶区]]﹂創刊。﹁凶区﹂には、のちに[[金井美恵子]]が加入するが、1971年に廃刊宣言号を出す。鈴木は廃刊以前に脱退。1968年、2冊目の詩集﹃罐製同棲又は陥穽への逃走﹄により[[H氏賞]]受賞。第IV部に﹁処女プアプア﹂が登場、鈴木志郎康といえば﹁プアプア詩﹂と思われていた時期もあった。破壊的な口語表現と[[エログロ]]描写が衝撃を与える。極私的︵きょくしてき︶という言葉は、この頃の鈴木の造語である。しかし、1974年の﹃やわらかい闇の夢﹄は一転平易な言葉で都市の中の個人を描き、それも驚きを持って受け止められたのだった。1971年から1976年まで[[東京造形大学]]非常勤講師。1976年から[[イメージフォーラム]]付属映像研究所講師。1982年から1994年まで早稲田大学文芸科非常勤講師。1990年から[[多摩美術大学]]教授。2002年、詩集﹃胡桃ポインタ﹄で[[高見順賞]]受賞。2006-07年、多摩美大客員教授。2008年﹃声の生地﹄で[[萩原朔太郎賞]]受賞。︵以下の本人サイトを参考にして加筆︶
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2009年3月26日 (木) 03:07時点における版
鈴木 志郎康︵すずき しろうやす、1935年5月19日 - ︶は、日本の詩人。東京市江東区亀戸生まれ。本名・鈴木康之。
1952年頃から詩を書き始める。1961年、早稲田大学文学部仏文科卒。在学中の1959年に高野民雄と雑誌﹁青鰐﹂を刊行。1961年から1977年までNHKに16ミリ映画カメラマンとして勤務。1963年頃から個人映画を作り始める。1964年、天沢退二郎、渡辺武信、菅谷規矩雄、藤田治、彦坂紹男、秋元潔、山本道子、野沢暎、高野民雄とともに、雑誌﹁凶区﹂創刊。﹁凶区﹂には、のちに金井美恵子が加入するが、1971年に廃刊宣言号を出す。鈴木は廃刊以前に脱退。1968年、2冊目の詩集﹃罐製同棲又は陥穽への逃走﹄によりH氏賞受賞。第IV部に﹁処女プアプア﹂が登場、鈴木志郎康といえば﹁プアプア詩﹂と思われていた時期もあった。破壊的な口語表現とエログロ描写が衝撃を与える。極私的︵きょくしてき︶という言葉は、この頃の鈴木の造語である。しかし、1974年の﹃やわらかい闇の夢﹄は一転平易な言葉で都市の中の個人を描き、それも驚きを持って受け止められたのだった。1971年から1976年まで東京造形大学非常勤講師。1976年からイメージフォーラム付属映像研究所講師。1982年から1994年まで早稲田大学文芸科非常勤講師。1990年から多摩美術大学教授。2002年、詩集﹃胡桃ポインタ﹄で高見順賞受賞。2006-07年、多摩美大客員教授。2008年﹃声の生地﹄で萩原朔太郎賞受賞。︵以下の本人サイトを参考にして加筆︶
詩作のみならず映像作家、映画評論家としても活躍する。1999年には横浜美術館レクチャーホールにて映像個展﹁時の堆積は自然と人を復活させる﹂が開かれ、その当時までに撮られた25本の作品がまとめて上映された。