「鈴木志郎康」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Clear63 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
Clear63 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
5行目: 5行目:

1963年頃から個人映画を作り始める。[[ジョナス・メカス]]の影響を受け、日記的な作品を多数制作。この年に詩集「新生都市」が発刊され、注目を浴びる。

1963年頃から個人映画を作り始める。[[ジョナス・メカス]]の影響を受け、日記的な作品を多数制作。この年に詩集「新生都市」が発刊され、注目を浴びる。



1964年、[[天沢退二郎]]、[[渡辺武信]]、[[菅谷規矩雄]]、[[藤田治]]、[[彦坂紹男]]、[[秋元潔]]、[[山本道子 (作家)|山本道子]]、[[野沢暎]]、[[高野民雄]]とともに、雑誌「[[凶区]]」創刊。「凶区」には、のちに[[金井美恵子]]が加入するが、1971年に廃刊宣言号を出す。鈴木は廃刊以前に脱退。1968年、2冊目の詩集『罐製同棲又は陥穽への逃走』により[[H氏賞]]受賞。第IV部に「処女プアプア」が登場、鈴木志郎康といえば「プアプア詩」と思われていた時期もあった。破壊的な口語表現と[[エログロ]]描写が衝撃を与える。極私的(きょくしてき)という言葉は、この頃の鈴木の造語である。しかし、1974年の『やわらかい闇の夢』は一転平易な言葉で都市の中の個人を描き、それも驚きを持って受け止められたのだった。


1964[[退]][[]][[]][[]][[]][[]][[ ()|]][[]][[]][[]][[]]1971退19682[[H]]IV[[]]1974


1971年から1976年まで[[東京造形大学]]非常勤講師。1976年から[[イメージフォーラム]]付属映像研究所講師。1982年から1994年まで早稲田大学文芸科非常勤講師。1990年から[[多摩美術大学]]教授。2002年、詩集『胡桃ポインタ』で[[高見順賞]]受賞。2006-07年、多摩美大客員教授。2008年『声の生地』で[[萩原朔太郎賞]]受賞。(以下の本人サイトを参考にして加筆)

1971年から1976年まで[[東京造形大学]]非常勤講師。1976年から[[イメージフォーラム]]付属映像研究所講師。1982年から1994年まで早稲田大学文芸科非常勤講師。1990年から[[多摩美術大学]]教授。2002年、詩集『胡桃ポインタ』で[[高見順賞]]受賞。2006-07年、多摩美大客員教授。2008年『声の生地』で[[萩原朔太郎賞]]受賞。(以下の本人サイトを参考にして加筆)


2009年6月13日 (土) 16:52時点における版


  1935519 - 

19521961195919611977NHK16

1963

1964退1971退19682HIV1974

19711976197619821994199020022006-072008

199925


1963

1967

1969

  1970

1971

1972

1974

3331975 調

1975

1975

1976

1977

 1977

1978

1979.5

1980

1980

1981

 1982

1982

1983

 1984

1985

1985

︿1985

1987

1988

1989

1990

1991

1992

 1994

1994

 1995

1996

2001

2008


EKO Series1963 8mm

(24) 1975 16mm

(13)1975 16mm

(200) 1977 16mm

(46)1978 16mm

15(90)1980 16mm

(90)1981 16mm

(30)1984 16mm

(50)1985 16mm

(22)1988 16mm

(102)1989 8mm4201/

(10)1990 16mm

(15)1991

(15)1992 16mm

(20)1993 16mm

(20)1994 16mm

(15)1995 16mm

1996

(15)1997 16mm

(34)1998 16mm

(53)1999 16mm

(19)2000 16mm

EBIZUKA(40)2001 16mm

(70)2002 miniDV

退2002(38)2003 miniDV

2003(36)2004 miniDV

(36)2005 miniDV

(35)2006 miniDV


19685

19755vs

119761