「香川景樹」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m bot:WP:LS |
||
1行目: | 1行目: | ||
{{文学}} |
{{文学}} |
||
'''香川景樹'''︵ |
'''香川景樹'''︵かがわ かげき、[[明和]]5年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]]︵[[1768年]][[5月25日]]︶- [[天保]]14年[[3月28日 (旧暦)|3月27日]]︵[[1843年]][[4月26日]]︶︶は、[[江戸時代]]後期の[[歌人]]。父は[[鳥取藩]]藩士荒井小三次。初名は、純徳・景徳。通称は銀之助・真十郎・式部・長門介。号は桂園︵けいえん︶・東塢亭︵とううてい︶・梅月堂・観鶩亭︵かんぼくてい︶・臨淵社・万水楼・一月楼。
|
||
親類である奥村定賢に養育され、[[京都]]で、清水谷実業の流れをくむ二条派の歌人梅月堂[[香川景柄]]︵かがわかげもと︶の[[養子]]となった。[[1808年]]︵文化元年︶に離縁しているが、その後も香川を名乗っている。[[清水定固]]に[[和歌]]を学び、上京して[[徳大寺家]]に出仕した。養父景柄を通じて[[小沢蘆庵]]に私淑し、後に﹁しらべの説﹂を提唱して独自の歌風を創始。[[明治時代]]まで続く[[桂園派]]と称される流れをつくる。門人には[[熊谷直好]]、[[木下幸文]]、[[菅沼斐雄]]などがいる。
|
親類である奥村定賢に養育され、[[京都]]で、清水谷実業の流れをくむ二条派の歌人梅月堂[[香川景柄]]︵かがわかげもと︶の[[養子]]となった。[[1808年]]︵文化元年︶に離縁しているが、その後も香川を名乗っている。[[清水定固]]に[[和歌]]を学び、上京して[[徳大寺家]]に出仕した。養父景柄を通じて[[小沢蘆庵]]に私淑し、後に﹁しらべの説﹂を提唱して独自の歌風を創始。[[明治時代]]まで続く[[桂園派]]と称される流れをつくる。門人には[[熊谷直好]]、[[木下幸文]]、[[菅沼斐雄]]などがいる。
|
2008年7月20日 (日) 14:11時点における版
文学 |
---|
![]() |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
香川景樹︵かがわ かげき、明和5年4月10日︵1768年5月25日︶- 天保14年3月27日︵1843年4月26日︶︶は、江戸時代後期の歌人。父は鳥取藩藩士荒井小三次。初名は、純徳・景徳。通称は銀之助・真十郎・式部・長門介。号は桂園︵けいえん︶・東塢亭︵とううてい︶・梅月堂・観鶩亭︵かんぼくてい︶・臨淵社・万水楼・一月楼。
親類である奥村定賢に養育され、京都で、清水谷実業の流れをくむ二条派の歌人梅月堂香川景柄︵かがわかげもと︶の養子となった。1808年︵文化元年︶に離縁しているが、その後も香川を名乗っている。清水定固に和歌を学び、上京して徳大寺家に出仕した。養父景柄を通じて小沢蘆庵に私淑し、後に﹁しらべの説﹂を提唱して独自の歌風を創始。明治時代まで続く桂園派と称される流れをつくる。門人には熊谷直好、木下幸文、菅沼斐雄などがいる。
法号‥実参院悟阿在焉居士。