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| hiragana=こくし じょうし |
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| katakana=フクチ・サンジ |
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| latin=Heukchi Sangji |
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⚫ | 百済の[[百済#官制|達率]](二品官)兼風達郡将であった。[[顕慶]]5年([[660年]])8月に国王の[[義慈王]]が唐に降伏し滅亡すると、唐の左武衛大将軍[[蘇定方]]に部隊を率いて降伏した。 |
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⚫ | 百済の[[百済#官制|達率]](二品官)兼郡将であった |
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唐の将軍、蘇定方は兵を派遣して任存城を包囲した。黒歯常之は配下の軍兵の中から精鋭を選び、包囲する唐軍に果敢に奇襲を試みて、唐の攻囲軍を打ち破った。唐軍は大敗を喫して逃亡した。黒歯軍は逃げる唐軍を追撃し、200余の城塞を攻略してその領域を回復した。
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唐の将軍、蘇定方は兵を派遣して任存城を包囲した。黒歯常之は配下の軍兵の中から精鋭を選び、包囲する唐軍に果敢に奇襲を試みて、唐の攻囲軍を打ち破った。唐軍は大敗を喫して逃亡した。黒歯軍は逃げる唐軍を追撃し、200余の城塞を攻略してその領域を回復した。
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蘇定方はこの事態を把握して、自ら出馬して黒歯常之と相対した。蘇定方はこの時期の唐を代表する名将であり、用兵は巧みであったが、黒歯常之を打ち破ることはできなかった。しかし、蘇定方の前線指揮の結果、唐の軍紀は回復し、黒歯常之が回復した城塞も次第に攻略されていった。
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蘇定方はこの事態を把握して、自ら出馬して黒歯常之と相対した。蘇定方はこの時期の唐を代表する名将であり、用兵は巧みであったが、黒歯常之を打ち破ることはできなかった。しかし、蘇定方の前線指揮の結果、唐の軍紀は回復し、黒歯常之が回復した城塞も次第に攻略されていった。
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黒歯常之は別将の[[沙宅相如]]とともに険峻な要害の地に |
黒歯常之は別将の[[沙宅相如]]とともに険峻な要害の地に拠って抵抗を続け、同じく唐に抵抗する百済の将軍、扶余福信([[鬼室福信]])の拠る[[周留城]]に軍を率いて合流した。 |
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百済復興を目指す旧百済軍は指導者を求めて |
百済復興を目指す旧百済軍は指導者を求めて、[[龍朔]]3年︵[[663年]]︶に[[倭国]]に人質として派遣されていた百済の王子、扶余豊︵[[扶余豊璋]]︶の帰国を倭国に求めた。倭国はそれに応えて、兵5000余と軍事顧問らを派遣した。だが扶余豊には王の資質はなく、倭国で安穏とした豊かな生活を過ごしてきたため、篭城戦という非常事態の緊迫した状況に馴染めなかった。
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また、倭国に人質として派遣されたことがそもそも百済国内での政争に敗れた結果であったため、百済の遺民や復興軍の将帥たちのなかにも扶余豊 |
また、倭国に人質として派遣されたことがそもそも百済国内での政争に敗れた結果であったため、百済の遺民や復興軍の将帥たちのなかにも扶余豊に対する侮蔑があり、扶余豊自身の被害者意識があったことなどから、百済復興運動は巧く機能しなかった。
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扶余豊 |
扶余豊は険峻な周留城を嫌い、平坦で景色の良い避城への移動を推し進めるなど、戦時とは思えない感覚が黒歯常之や扶余福信に違和感を持たせた。倭軍の[[朴市秦田来津|秦田来津]]︵はたのたくつ︶ら軍事顧問は、避城への移動が敵軍に近付くことになり、防ぐ障壁も無い平地では兵数に劣る復興軍に勝ち目のないことを主張した。
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黒歯常之もそれに同調したが、扶余福信 |
黒歯常之もそれに同調したが、扶余福信は扶余豊を慮ってそれに与しなかった。その結果、扶余豊は避城への移動を強行した。しかし、唐軍が近付くと慌てて周留城へ撤退したため、少なからぬ兵を失う結果となった。
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この頃から百済復興軍の |
この頃から、百済復興軍の内部で指導部である扶余福信や扶余豊に対する批判がおこった。そうして二人は互いに相手を毛嫌いするようになり、ついに扶余福信が扶余豊によって処刑される結果となった。 |
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その後、百済復興支援のために派遣された倭軍 |
その後、百済復興支援のために派遣された倭軍の出撃の報が知らされると、扶余豊は周留城を捨てて倭軍と合流すると称して城を抜け出した。倭軍は扶余豊が周留城にいると考え、その救援のため[[白村江の戦い]]で無謀とも言える敵中突破作戦を遂行するが、唐水軍の前に敗退した。 |
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しかし、それ以前に扶余豊 |
しかし、それ以前に扶余豊は逃亡していた。百済復興は、こうしてあえなく失敗に終わった。黒歯常之は周留城を防衛していたが、百済復興運動の前途を悟って唐からの降伏勧告に応じ、[[663年]]に百済復興運動から脱落した。黒歯常之の投降に対して、唐はその軍事的才能を高く評価し、将軍として彼を招聘し熊津都護府に属させた。
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===唐の将軍として=== |
=== 唐の将軍として === |
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[[儀鳳]]3年︵[[678年]]︶、その高い指揮能力と知略を認められて唐の都左領軍将軍となり、[[吐蕃]]討伐に参加した。総指揮官である中書令、洮河道行軍大総管・西河鎮撫大使・[[鄯州]][[都督]]の[[李敬玄]]の指揮下に入り、[[益州]][[長史]][[李孝逸]]、[[嶲州|巂州]]都督[[拓王奉]]などとともに進軍し、龍支︵現在の[[青海省]]東南地区︶で吐蕃と戦い、これを撃ち破った。しかし、吐蕃も大軍を派遣したため戦線は膠着し、李敬玄は軍を動かして吐蕃軍を攻撃させたが大敗し、[[劉審礼]]が戦死した<ref>﹃[[資治通鑑]]﹄202巻では、劉審礼は捕虜となっている。</ref>。また、李敬玄は軍を承風嶺に移動し駐屯したが、吐蕃の大軍に包囲されてしまった。その事態を打開するために、黒歯常之は精鋭の決死隊500人を率い、闇夜に隠れて包囲する吐蕃の陣営に夜襲を敢行した。吐蕃は大きな痛手を負い、退却して軍を立て直すこととなった。その隙に李敬玄は全軍を退却させた。
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[[調露]]元年([[679年]])には侵攻してきた吐蕃軍を迎撃した。 |
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[[永隆 (唐)|永隆]]元年︵[[680年]]︶、再び吐蕃は3万の大軍を派遣して河源を攻め、良非川に駐屯した。李敬玄はそれを湟川で攻撃したが、吐蕃軍に迎撃されて大敗した。先年の戦功により左武衛将軍・河源軍副使となった黒歯常之は、精鋭の騎兵3000を率いて再び吐蕃の陣を夜襲し、吐蕃軍を退却させた。それらの功績を評価されて黒歯常之は'''河源道経略大使'''となり、国境警備や[[屯田]]開発、城塞の設置などに奔走した。同年、再び吐蕃が入寇したが、黒歯常之は再びこれを良非川に破った<ref>典拠﹃新唐書吐蕃伝上﹄</ref><ref>﹃資治通鑑﹄202巻では、7月に吐蕃を黒歯常之が撃ち破った記事がある。</ref>。
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[[開耀]]元年([[681年]])、黒歯常之は良非川で吐蕃の[[論贊婆]]を撃ち破り、その兵糧や家畜を収めて帰還した<ref name="#1">典拠『資治通鑑』202巻</ref>。 |
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何度かの吐蕃軍の撃退などの功績および屯田開発などの成果に対して唐は黒歯常之に'''燕国公'''の爵位を与えた。 |
何度かの吐蕃軍の撃退などの功績および屯田開発などの成果に対して、唐は黒歯常之に'''燕国公'''の爵位を与えた。 |
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黒歯常之が軍にいた7年間は、吐蕃はこれを深く畏れ、敢えて辺境を犯すことはなかった。 |
黒歯常之が軍にいた7年間は、吐蕃はこれを深く畏れ、敢えて辺境を犯すことはなかった<ref name="#1"/>。 |
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[[光宅]]元年︵[[684年]]︶、[[武則天]]が即位すると、[[眉州]]刺史英公李敬業︵[[徐敬業]]︶は武則天によって[[柳州]][[司馬]]に左遷された。李敬業は謀って[[揚州市|揚州]]長史の[[陳敬之]]を逮捕殺害し、その軍権を手に入れた。そして自ら揚州大都督と号し、唐の復興を旗印に叛乱を起こした。[[楚州 (江蘇省)|楚州]]司馬李崇福らもそれに賛同し、勢力は侮りがたいものとなった。武則天は左玉鈐衛大将軍李孝逸を揚州道大総管として、兵30万を与えて討伐に向かわせた。李敬業は先祖の功績から李姓となっていたが、元来は徐姓であった。そのため、武則天は徐敬業と改めさせた。しかし、李孝逸は徐敬業を鎮圧できなかった。11月、武則天は黒歯常之を'''江南道大総管'''として討伐させた<ref>典拠﹃資治通鑑﹄203巻</ref>。
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[[垂拱]]2年︵[[686年]]︶9月、侵入した東突厥軍3000余を200余で撃退する大勝利を収めた。その戦功によって'''燕然道大総管'''に任命され、対東突厥の前線最高指揮官となった。垂拱3年︵[[687年]]︶2月、東突厥は昌平に侵攻した。唐はそれに対して、'''左鷹揚衛大将軍'''の黒歯常之に諸軍を率いて突厥軍を撃退せよと出撃を命じた。黒歯常之は速やかに撃退した。また、黒歯常之は朔州に侵入した東突厥を[[黄花堆の戦い]]で大いに破った。
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右監門衛中郎将の[[爨宝璧]]は自身も戦功を立てたいと願い出た。朝廷はこれを認めたが |
右監門衛中郎将の[[爨宝璧]]は、自身も戦功を立てたいと願い出た。朝廷はこれを認めたが危ぶみ、黒歯常之にその監督を命じた。しかし、爨宝璧は戦功を独り占めしようと考え、黒歯常之に無断で独自に兵を動かし、東突厥を追撃したが大敗した。爨宝璧は武則天に罪を問われ処刑された。また、黒歯常之も爨宝璧の暴走を止められなかった責任を追及され、免官された。
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永昌元年(689年)10月9日、周興らによって'''右武衛大将軍・燕国公'''黒歯常之は謀反を企んでいると誣告され、獄に繋がれ撲殺された。または殺害を予期し自決したともいう。 |
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没後 |
子の[[黒歯俊]]が当時の権力者・[[武三思]]の部下として軍功を立てたことで、没後に冤罪が判明した。名誉回復のために、[[698年]]に[[武則天]]より﹁大周故左武威衛大将軍検校左羽林軍贈左玉鈐衛大将軍燕国公黒歯府君﹂の称号を遺贈され、その墓誌に刻まれた<ref>出典﹃黒歯常之墓志﹄</ref>。
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===家族=== |
=== 家族 === |
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*長男 |
* 長男:[[黒歯俊]](出典『黒歯常之墓志』『黒歯俊墓志』) |
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* 女婿:[[勿部珣]](出典『[[勿部将軍功徳記]]』、[[勿部珣]]を「物部珣」とし、[[物部氏]]の末裔とする説が有力である<ref>{{Cite news|author=|date=2006-11-17|title=순장군공덕기(珣將軍功德記)|publisher=[[聯合ニュース]]|newspaper=|url=https://www.yna.co.kr/view/PYH20061117010700999|archiveurl=https://web.archive.org/web/20220209061550/https://www.yna.co.kr/view/PYH20061117010700999|archivedate=2022-02-09}}</ref><ref>{{Cite news|author=|date=|title=순장군 공덕기 (珣將軍 功德記)|publisher=[[国史編纂委員会]]|newspaper=|url=https://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&totalCount=1&itemId=gskh&synonym=off&chinessChar=on&page=1&pre_page=1&brokerPagingInfo=&types=&searchSubjectClass=&position=0&levelId=gskh_008_0020_0010_0030|archiveurl=https://web.archive.org/web/20221019134040/https://db.history.go.kr/item/level.do?setId=1&totalCount=1&itemId=gskh&synonym=off&chinessChar=on&page=1&pre_page=1&brokerPagingInfo=&types=&searchSubjectClass=&position=0&levelId=gskh_008_0020_0010_0030|archivedate=2022-10-19}}</ref>) |
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*女婿:[[勿部珣]](出典『勿部将軍功徳記』)・・・2006年11月に「勿部」は「物部」であるとの研究が発表されているが学界での賛否は分かれている。 |
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===血統と日本との関係=== |
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黒歯常之の祖は、百済の王族であり、黒歯常之もさほど百済滅亡時の義慈王からみて遠い同族ではなく、比較的近い親族であったと思われる。また、﹁黒歯氏﹂の由来に関して、﹁[[黒歯国]]﹂を領したことから、﹁黒歯﹂を氏としたとされている。現在、[[大韓民国]]などではこの﹁黒歯国﹂をめぐっても論争があり、﹁黒歯国﹂は[[台湾]]であるとし、台湾は古代には百済の勢力圏に含まれたとする論や、[[魏志倭人伝]]を典拠に﹁黒歯国﹂は[[倭国]]︵[[日本]]︶の東南にあった国で、黒歯常之の祖先は、倭国を平定し、その東南にあった﹁黒歯国﹂まで百済の勢力圏に含まれていたとし、それらの平定の功績から領地として黒歯の地が黒歯常之の祖先に与えられたとする論などがある。また、日本では、一在野の史家の論ではあるが、﹁黒歯国﹂は当時の朝鮮や中国などでは日本の異称として知られていたことから、倭国︵日本︶に派遣されて、長期滞在︵[[日本書紀]]などに見られる百済の王族などの[[人質]]などを想定︶し、それらの王族が帰国後、倭国の文化であった歯を黒く染める風習︵[[お歯黒]]︶を百済に持ち込んだために、百済の人々から﹁黒歯﹂氏とよばれ、それが定着したとする論もある。
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<references/> |
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== 参考文献 == |
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* 「アジア人物史 2」集英社、2023年 |
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== 関連項目 == |
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==関連項目== |
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*[[唐]] |
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*[[吐蕃]] |
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*[[突厥]] |
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*[[物部氏]] |
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{{Normdaten}} |
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[[ko:흑치상지]] |
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{{DEFAULTSORT:こくししようし}} |
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[[Category:白村江の戦い]] |
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[[Category:生年不明]] |
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[[Category:中国朝鮮関係史]] |
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2024年6月11日 (火) 21:13時点における最新版
黒歯常之 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 흑치상지 |
漢字: | 黑齒常之 |
発音: | フクチ・サンジ |
日本語読み: | こくし じょうし |
ローマ字: | Heukchi Sangji |