アルプス国家要塞
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アルプス国家要塞︵アルプスこっかようさい、独: Alpenfestung、英: National redoubt︶とは、第二次世界大戦末期にナチス・ドイツが最後の抵抗を行うためにドイツ南部に建設したという要塞地帯。しかしこれはプロパガンダ上のものであり、実際には存在しなかった。
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連合軍最高司令部︵en︶。左から、オマール・ブラッドレー、バートラ ム・ラムゼー、アーサー・テッダー、ドワイト・アイゼンハワー、バーナード・モントゴメリー、トラッフォード・リー・リー=マロリー。
1945年3月11日、連合軍最高司令部情報部のストロング少将︵en︶は、連合軍総司令官ドワイト・D・アイゼンハワー元帥に﹁ボーデン湖南方のフェルトキルヒ、インスブルック西のクフシュタイン、ベルヒテスガーデンで大規模な地下工事が進められている。有力な武装親衛隊部隊がアルプスに進軍中であり、ヒトラー、ヒムラー、ゲーリングといった要人もすでにアルプスに移っている﹂という報告書を提出した。
3月21日、オマール・ブラッドレー大将率いる第12軍集団はドイツの政治的軍事的機構がアルプスに移動したと判定し、ベルリン攻略の方針を放棄し、ドイツ中部を進軍して﹁国家要塞﹂へのドイツ軍流入を阻止するように進言した。
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チャーチルと将軍達。前列左からチャールズ・ポータル、アラン・ブルー ク、ウィンストン・チャーチル、アンドルー・カニンガム、後列左からL・C・ホリス、ヘイスティングス・イスメイ1945年5月7日
この方針を受け取った第21軍集団のバーナード・モントゴメリー元帥は本国に連絡し、アラン・ブルーク陸軍参謀総長からウィンストン・チャーチル首相に伝えられた。イギリス側はアイゼンハワー元帥が合同参謀本部︵en︶の頭越しにスターリンに打電したこと、ベルリンの放棄の方針、合意無しに方針を転換したことに激怒した。抗議のために訪れたブルーク参謀総長を見たマーシャル参謀総長は﹁私はゾッとした。ブルークは本気で怒っている。勝利を目前にしたこの時期に、米英史上で最悪の対立が発生するとは予想外であり、私は何もかも投げ出したい気分におそわれた﹂と記録している[1]。3月29日、ブルーク参謀総長は統合参謀本部に﹁確度と根拠が低い国家要塞情報﹂を戦略決定の要素とみなす必要はないと、アイゼンハワー元帥戦略を批判した電文を送った。またこの日、チャーチル首相はアイゼンハワー元帥に直々に電話したが、﹁ベルリンはもはや重要な軍事目標ではありません﹂という返答を得たのみであった。
3月31日、チャーチル首相はアイゼンハワー元帥に電報を送り、ベルリン攻略の重要性を訴えた。その要旨は以下の通り。
●﹁ベルリンを彼らにまかせれば、彼ら︵ソ連︶に、自分たちにはなんでもできるという自信を強化させるだけであろう。﹂
●﹁ベルリンにドイツ国旗がひるがえっている﹂かぎり、ドイツ政府は何度でも疎開を行うであろうし、ドイツ国民も戦い続ける。
●全ドイツの抵抗を打破するにはベルリン攻略以外になく、これまでの戦略を維持するべきである。
しかしまもなく、アメリカ統合参謀本部からブルーク参謀総長の電報への返事が届いた。統合参謀本部からの電報はアイゼンハワー元帥の見解を支持し、ブルーク参謀総長の見解を一蹴するものであった。4月1日、チャーチルはルーズベルト大統領に親電を送り、方針の転換を求めた。しかしすでに病状が悪化していたルーズベルトは電報を見ず、返事を出したのはマーシャル参謀総長であったため、返電はアイゼンハワー元帥の見解を支持するものであった。
同じ頃、ソ連側からも﹁ベルリンはかつての戦略的重要性を喪失している﹂という内容の電報が届いた。アイゼンハワー元帥は自身の見解がソ連にも理解されていると喜んだが、これは米英側より先にベルリンを攻略する方針を持つスターリンが、米英側を﹁油断﹂させる意図で送ったものだった[2]。
ここにいたってイギリス側も方針に固執することは出来ず、ベルリン回避は米英軍の既定方針となった。米英軍の東進はエルベ川までとなり、ベルリン攻略はソ連軍が行うことになった。4月15日、最高司令官命令によりエルベ川に到着した米英軍は南北に進撃を開始し、翌16日にはソ連軍によるベルリン攻撃が始まった︵ベルリンの戦い︶。
背景[編集]
第二次世界大戦が終盤にさしかかり、ドイツは東のソ連軍、西の米英軍によって挟撃されていた。しかし、米英軍の間に﹁アルプス地帯に要塞地帯があり、ヒトラーとドイツ軍がそこにこもって最後の抵抗を行う﹂という噂が流れ始めた。噂は流れるにつれ、東はザルツブルク、西はスイス国境のボーデン湖に至る山岳地帯に建設されているという具体的なものになってきた。﹁国家要塞﹂情報[編集]
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ベルリン回避決定[編集]
総司令官アイゼンハワー元帥は情報を受け取ると、アメリカ本国の陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル元帥に具申した。マーシャル参謀総長は﹁ヴェアヴォルフ﹂部隊の存在も考慮し、ベルリン到達までに10万人の損害が出ると判定した。3月21日、マーシャル参謀総長は﹁敵の組織的抵抗地域の組成を防止﹂することに主眼を置くべきであり、ソ連軍と接触して﹁友軍相撃﹂の不祥事を起こさない配慮を求めると電報を送った。アイゼンハワー元帥はこれを﹁ベルリンに向かわず、国家要塞地帯に向かえ﹂という指示であると判定し、ベルリン進撃の中止を決定した。 3月28日、アイゼンハワー元帥はベルリン回避をふまえた新たな方針を決定し、ソビエト連邦指導者スターリン、イギリスにいる連合軍副司令官アーサー・テッダー︵en︶大将、第21軍集団司令部に連絡した。イギリスの抗議[編集]
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