エリーザベト・シューマン
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エリーザベト・シューマン Elisabeth Schumann | |
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基本情報 | |
生誕 | 1888年6月13日 |
出身地 |
ドイツ帝国 プロイセン王国 ザクセン州 メルゼブルク |
死没 |
1952年4月23日(63歳没) アメリカ合衆国 ニューヨーク |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 |
声楽家(ソプラノ) オペラ歌手 音楽教育者 |
担当楽器 | 声楽 |
エリーザベト・シューマン︵Elisabeth Schumann, 1888年6月13日 メルゼブルク - 1952年4月23日 ニューヨーク、1885年誕生説あり︶は、ドイツ系アメリカ人の声楽家︵ソプラノ︶、オペラ歌手、オラトリオ歌手、宮廷歌手、音楽教育者。英語読みでエリザベス・シューマンと表記されることがある。
経歴[編集]
エリーザベト・シューマンは、メルゼブルクのゴットハルト通り27[1]で、教師、オルガニスト、指揮者のアルフレート・シューマンの末娘として生まれた。プリマ・ドンナのヘンリエッテ・ゾンタークは彼女の直接の先祖の一人であったと言われている。 最初はベルリンでファレリー・ジテルマンとマリー・ディートリヒなどに師事し、続いてドレスデンでナタリー・ヘニッシュに師事した。 ハンブルクで彼女はアルマ・シャドウからレッスンを受け、1909年に地元のオペラハウス︵ハンブルク州立歌劇場︶でワーグナー﹃タンホイザー﹄羊飼いの少年として舞台デビューを果たした。彼女はこの歌劇場に1919年まで所属することになる。1912年には、モーツァルト﹃フィガロの結婚﹄ケルビーノ、後にスザンナでセンセーションを巻き起こした。その後、モーツァルト﹃ドン・ジョヴァンニ﹄ツェルリーナ、ワーグナー﹃ニュルンベルクのマイスタージンガー﹄エファなどを演じた。1914年から15年にかけてはニューヨークのメトロポリタン・オペラに行き、その後数十年間もの友人となるリヒャルト・シュトラウスの﹃ばらの騎士﹄ゾフィーでデビューした。メトロポリタン・オペラでは、プッチーニ﹃ラ・ボエーム﹄ムゼッタ、フンパーディンク﹃ヘンゼルとグレーテル﹄グレーテル、ベートーヴェン﹃フィデリオ﹄マルツェリーネなど、そのシーズンは10役を演じた。第一次世界大戦の勃発にもかかわらず、彼女は1915年5月にアメリカからハンブルク[2]に戻ることができ、1918年にはアルノルト・ヴィンターニッツのオペラ﹃マイスター・グロビアン﹄の世界初演に出演した。 1919年に彼女はウィーン国立歌劇場に招聘され、1922年から1935年までザルツブルク音楽祭においてフーゴ・フォン・ホーフマンスタール、マックス・ラインハルト、リヒャルト・シュトラウスのもとで活動した。ウィーン滞在中、彼女と再婚した指揮者の夫カール・アルヴィン︵1891–1945︶は、パトロンであるイェニー・マウトナー︵1856-1938︶やその夫である実業家のイジドール・マウトナー︵1852-1930︶と一緒に、1925年からマリエンタールの織物工場を所有していた[3]。彼女はヨーロッパ、アメリカ合衆国、南アメリカを巡る大規模なコンサートツアーに加わり、リヒャルト・シュトラウスなどがピアノに同行した。 オペラ以外にもエリーザベト・シューマンはオラトリオにも出演している。また、愛唱されている歌曲の歌い手でもあり、2つの歌曲集を編纂・出版している。 上記のとおり、彼女はオペラやオペレッタから、オラトリオや歌曲まで、幅広いレパートリーを誇り、豊かな録音を後世に遺した。生き生きとした表情や優雅さ、美貌によって愛され、評価された。リヒャルト・シュトラウスやオットー・クレンペラー、ロッテ・レーマン、ブルーノ・ワルター、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーなど、往年のドイツ楽壇の錚々たる顔ぶれと親しかった。 1938年にナチスがオーストリアを併合し政権を握ったとき、彼女の音楽活動は、1933年まで結婚していた前夫の指揮者カール・アルヴィン同様に、職業禁止令によって突然途絶えさせられた。1938年にアルヴィンはメキシコに移住した。同年3月彼女はイギリスに移住し、10月には3人目の夫とアメリカに移住し、1944年にはアメリカの市民権を得た。1938年にはフィラデルフィアのカーティス音楽学校に受け入れられ、1947年まで教鞭を執った。終戦後、1945年秋にコンサートツアーのためにヨーロッパに戻り、多くのリサイタルを行い、イギリスで特に成功を収めた。 いつかはイギリスに定住しようと計画していたが、ニューヨークでの突然の死により、その望みが叶えられることはなかった。 彼女を記念して、メルゼブルク旧市街公益法人は、彼女が生まれた家に記念プレートを設置した。メルゼブルク・シュテーンデハウスの1階にある劇場とコンサートホールは、彼女にちなんで名付けられている[4]。家族[編集]
最初の結婚相手は、ベルリンで出会った建築家のヴァルター・プリッツ︵1882-1957︶である。ハンブルク時代に指揮者・作曲家オットー・クレンペラーと関係を持った︵彼女は二度クレンペラーと出奔している[5]︶後に離婚し、1919年にピアノ伴奏者でもある指揮者・作曲家・ピアニストのカール・アルヴィンと結婚。1932年から皮膚科医のハンス・クリューガーと恋愛関係になり1933年にアルヴィンと離婚。1938年にクリューガー︵ユダヤ人︶を国外に連れ出しイギリスで結婚。クリューガーとは1944年にアメリカで離婚している[6]。 ニューヨークで末期のシューマンを見舞ったロッテ・レーマンはクレンペラーに電話をかけ、感動的なシューマンとクレンペラーとの会話が交わされたという。電話を切った後にシューマンは﹁この人が私の人生の人だったの﹂と優しく言ったという[5]。 エリーザベト・シューマンとヴァルター・プリッツの息子ゲルト・ピューリッツ︵1914-2007︶は、膨大な文章と写真による母の伝記の執筆に身を投じ、娘のジョイ・ピューリッツは﹃世界的に有名なメルゼブルクのソプラノ歌手の人生﹄の共同編集者を務めている。栄誉[編集]
●ウィーン国立歌劇場名誉会員、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団初の女性名誉会員[6]記録[編集]
︵SPレコードの記録音質︶[7]
●Mozart – Deh vieni non tardar (Le nozze di Figaro), 1927 bei YouTube
●Bach – Bist du bei mir bei YouTube︵1934年録音︶
●Brahms – Wiegenlied, 1937 bei YouTube
●Schubert – Schlafe, Schlafe bei YouTube︵1937年録音︶
●Franz Schubert – Die Forelle bei YouTube︵1945年録音︶