オルハン・スヨルジュ
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オルハン・スヨルジュ | |
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生誕 |
1926年 トルコ クルクラーレリ県 |
死没 |
2013年2月24日 トルコ イスタンブール |
国籍 | トルコ |
職業 | パイロット |
著名な実績 | イラン・イラク戦争における邦人救出 |
受賞 | 旭日小綬章 |
オルハン・スヨルジュ︵Orhan Suyolcu、1926年 - 2013年2月24日︶は、トルコのパイロット[1]。
来歴[編集]
1926年クルクラーレリ県に生まれた。クレリ少年兵学校を卒業後、1947年に陸軍士官学校を卒業し、航空学校を修了してトルコ空軍にパイロットとして配属された[2]。1950年にドイツの航空学校でドイツ人のヘルガと知り合ったが、軍の規定で外国人との結婚が許されていないため、1955年に退役してヘルガ夫人と結婚した[2]。1957年トルコ航空のパイロットとなり、1989年に退職した[3]。 1985年にイラン・イラク戦争が勃発した際に、国外脱出困難となった在留邦人の救出のために、トルコ政府から派遣されたトルコ航空2機のうち、第1機長を務めた[4]。イラクのサッダーム・フセイン大統領の発した﹁3月19日20時半以降はイランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落とす﹂という声明のタイムリミットぎりぎりにメヘラーバード空港で215名の日本人を救出し、トルコ領空に舞い戻った[5]。当時日本の航空会社は、就航していなかった[6]。 2006年1月22日、小泉純一郎内閣総理大臣がトルコを訪問した際、彼ではなく副機長を機長だと勘違いして、チュラーン宮殿で面会する出来事があった。これは日本のドキュメンタリー制作チームが、副機長を機長と誤解して番組を作ったことが原因であった[7]。4月には、日本・トルコ国間の友好親善及び在留邦人救出に貢献したことにより旭日小綬章を受章した[1][8][9]。 2007年10月28日には、東京都三鷹市の中近東文化センターで行われたシンポジウム﹁イランからの脱出‥日本人を救出したトルコ航空﹂に元キャビンアテンダントとともにパネリストとして出席した[10]。 2011年3月27日、エルトゥールル号遭難事件の犠牲者慰霊碑のある和歌山県串本町を訪れて献花を行っている[9][4]。 2013年2月24日、イスタンブールで肺ガンのため死去した。87歳[9]。2014年、下関市は、火の山公園トルコチューリップ園の愛称を﹁オルハン・スヨルジュ記念園﹂と命名し、4月11日に友好碑の除幕式を開いた[11][12]。脚注[編集]
(一)^ ab“元トルコ航空パイロット・スヨルジュ氏の葬儀について” (PDF). 在イスタンブール日本国総領事館. 2013年3月2日閲覧。
(二)^ ab"Asıl Kahraman Bendim Hakkım Yendi!", Aktif Haber, 30 Ocak 2006-01-30.
(三)^ ﹁オルハン・スヨルジュ・・ちきゅう 時の散歩﹂読売新聞2014年5月2日夕刊17面
(四)^ ab“トルコ航空元機長らが献花”. 紀伊民報 (2011年3月28日). 2013年3月2日閲覧。
(五)^ “トルコの時代”. 2013年3月2日閲覧。
(六)^ “トルコ航空:日本人救出の元機長が死去、87歳”. 毎日新聞 (2013年3月1日). 2013年3月2日閲覧。
(七)^ “Koizumi küstürdü Milliyet barıştırdı!”. milliyet.com.tr (2006年2月2日). 2013年3月2日閲覧。
(八)^ “平成18年春の外国人叙勲受章者︵旭日章︶”. 外務省. 2013年3月2日閲覧。
(九)^ abc“邦人救出のトルコ機長死去”. 日刊スポーツ (2013年3月1日). 2013年3月2日閲覧。
(十)^ “﹃日本とトルコ友好の架け橋―エルトゥールル号回顧展﹄関連シンポジウム﹁もっとトルコを知るために﹂”. 朝日新聞 (2007年). 2013年3月2日閲覧。
(11)^ ﹁トルコ首相と面会 下関市長、記念碑製作を発表﹂、山口新聞、2014年1月8日。
(12)^ ﹁日本人救出の元機長顕彰、下関にトルコ友好碑﹂、読売新聞西部本社、2014年4月12日。