クトゥブッディーン・アイバク

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アイバク
قطب‌الدین ایبک
奴隷王朝スルターン

ポロ中に落馬するアイバク

在位 1206年6月27日 - 1210年

全名 クトゥブッディーン・アイバク
出生 1150年
トルキスタン
死去 1210年12月1日
ラホール
埋葬 ラホールアナールカリーバザール(墓所は1970年代に修復された)
配偶者 タジェッディーン・ヤルドーズの娘
子女 アーラーム・シャー
イルトゥトゥミシュの妃
家名 アイバク家
王朝 奴隷王朝
宗教 イスラーム教スンナ派
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クトゥブッディーン・アイバクの墓

: قطبالدین ایبک1150 - 1210 : 1206627- 1210

婿

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[1]1193[2]1202[2]

1206[1]233[2][1]6[3]

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1210[4]

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婿250

人物[編集]

  • アイバクはゴール朝のデリー総督であった時代以来、もともとはヒンドゥー教徒の町であったデリーをイスラム都市として整備することに力を注ぎ、デリーを征服した1193年から6年の歳月を費やして、「イスラムの力」を意味するクッワトゥルイスラームの名をもった大規模なモスクを現在のニューデリーよりもさらに南にあたる町の郊外に建設した。1200年には石造の巨大なミナレット(尖塔)を着工したが、この塔はアイバクの尊称(ラカブ)を取ってクトゥブ・ミーナールという名前で知られている。やがてアイバクの後継者たちによって現在ではもっぱらクトゥブ・モスクとも呼ばれるこのモスクを中心にイスラム文教地区が整備されるが、ここはその基礎をつくったアイバクの名からクトゥブ地区と呼ばれ、世界遺産にも登録されている。

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『ムガル帝国歴代誌』109頁。
  2. ^ a b c 『南アジア史』200頁。
  3. ^ 『ムガル帝国歴代誌』pp.109-110
  4. ^ 『ムガル帝国歴代誌』p.110

参考文献[編集]

外部リンク[編集]