ティル・オイレンシュピーゲル
ティル・オイレンシュピーゲル︵Till Eulenspiegel︶は、14世紀の北ドイツに実在したとされる、伝説の奇人︵トリックスター︶。様々ないたずらで人々を翻弄し、最期は病死、もしくは処刑されたとされる[1]。
ティル・オイレンシュピーゲル︵メルン︶
編著者については長年不明とされ、様々な説が出されてきた。オイレンシュピーゲルの初の研究家とされるJ・M・ラッペンベルク︵Johann Martin Lappenberg︶は、1519年版の﹁オイレンシュピーゲル﹂が最初版であり、編者は15~16世紀の風刺詩人トーマス・ムルナー︵Thomas Murner︶であるという説を唱え、1854年にムルナー名義で出版を行った。しかしその4年後に1515年版が見つかり、この説は否定された。
19世紀末にC・ヴァルターによってヘルマン・ボーテ︵Hermann Bote︶が編者とされたが、E・シュレーダーらの批判によって立ち消えとなった。その後、チューリッヒの研究家P・ホネガーの研究によって各章の頭の文字がアクロスティックになっており、その中に"ERMAN B"という文字列が見られることなどが判明したため、近年ではこのヘルマン・ボーテが編著者だと考えられている[7]。1978年には、インゼル文庫からボーテ名義のオイレンシュピーゲル本が発行されている。もっとも、その文字列が人名を表わすとしても、それはパトロンないし、改訂者の可能性もあるとする見解もある[8]。
﹁オイレンシュピーゲル﹂、﹁ウーレンシュピーゲル﹂︵Eulenspiegel︶の名の語源解釈には二説あり、ひとつは高地ドイツ語での﹁フクロウと鏡﹂︵Eule + Spiegel︶という意味をそのまま受けたもので、上図の民衆本の表紙でもフクロウと鏡を手にした姿で描かれている。阿部謹也はこれを、木版画家のあまり意味のない解釈としている。民衆本の第40話には、彼が﹁いつもの習慣﹂としてラテン語で﹁彼はここにいた﹂の文字を﹁梟と鏡﹂の絵とともに書き残す場面がある。オイレンシュピーゲルがラテン語を使うという不自然さから、この部分は後世の付け足しと考えられている。もっとも、フクロウと鏡を家の紋・屋号︵Hauszeichen︶とする推測もある[9]。
もう一つの説は、口承で使われた低地ドイツ語の方言で彼の名が﹁ウーレンシュペーゲル︵ウル・デン・シュペーゲル︶﹂︵Ulenspegel︶と発音され、これは当時の低地ドイツ語で﹁拭く﹂︵ulen︶と﹁尻﹂︵猟師仲間の隠語のSpegel︶、すなわち﹁尻を拭け﹂︵﹁くそったれ﹂に近いか?︶意味する駄洒落であるとするものである[10]。こちらも、民衆本の第66話で、窮地に立たされた﹁ウーレンシュペーゲル﹂が﹁俺の尻を︵拭かなければならないほど汚いか、汚くないか︶とっくりと見てみろ﹂と開き直り、これから逃れる場面がある。
研究家C・ヴァルター、K・ゲーデケ、W・シェーラーらは、本来の民衆本は低地ドイツ語で書かれ、重版の際に高地ドイツ語に書き換えられたとみている。作品中にも低地ドイツ語のままのエピソードが数編存在し、1515年版が原本とはみられていないが、これ以前の原本は現在も発見されていない。E・カドレックは1916年に、文体や内容の差異から、口承者としてと、編纂者としての2人の作者がいるとしている。一方、L・マッケンゼンは1936年にこれを、教養ある人物による個人創作としている。
ラッペンベルクやE・シュレーダー、W・ヒルスベルクらは、ティルの実在説を採り、生誕地の年代記や死亡地の文書に取材して同姓の人物を見つけているが、確証は得られていない。ティルの死因についても、民衆本以外の記録は無い。
典型的な道化の姿をしたティルの銅像︵メルン︶
彼の最期の地とされる北ドイツの都市メルン︵Mölln︶には彼の銅像や博物館が存在している。また、原典の民衆本とは異なり、典型的な宮廷道化の姿で描かれたものが多く見られる。