テオドール・ヘルツル
テオドール・ヘルツル בנימין זאב הרצל Herzl Tivadar Theodor Herzl | |
---|---|
生誕 |
1860年5月2日 オーストリア帝国 ハンガリー王国 ブダペスト |
死没 |
1904年7月3日(44歳没) オーストリア=ハンガリー帝国 エートラッハ |
職業 | 記者 |
テオドール・ヘルツル︵ヘブライ語: בנימין זאב הרצל︵Binyamin Ze'ev Herzl、ビニャミン・ゼエヴ・ヘルツェル︶、ハンガリー語: Herzl Tivadar、ドイツ語: Theodor Herzl、1860年5月2日 - 1904年7月3日︶は、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした一人。
ヘルツル生誕の地,Dohány街シナゴーグ,ブダペスト
﹃ユダヤ人国家﹄
1896年、シオニズム運動のさきがけをなす著作﹃ユダヤ人国家﹄を出版した。ここでは、ユダヤ人国家像と国家建設のプログラムを詳細に記されている。
翌1897年、スイスのバーゼルにおいて最初のシオニスト会議をひらいた。第1回シオニスト会議では、各国のユダヤ評議会によって選出された代表200人が参加したが、ヘルツルの威厳のある立居振舞いは﹁ユダヤ人の王﹂とさえ呼ばれるほどであったという。
また、彼は小説﹃古く新しい国﹄︵1902年︶の冒頭に﹁もしあなたが望むなら、それはお伽噺ではない﹂と書いて、ユダヤ人国家の建設を主張している。ユダヤ人国家の建設地としては、必ずしも聖地エルサレムがあるパレスチナにこだわらず、南アメリカのアルゼンチンや、アフリカのウガンダも候補地にしていた[2]。
1904年に心臓病により44歳で死去したが、その遺志は多くのユダヤ人に受けつがれることとなった。
生涯[編集]
ハンガリー︵当時はオーストリア帝国の一部︶のブダペストで生まれた。18歳の時にウィーンに移り[1]、法律・ジャーナリズム・文学を学んだ。 当初はコスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけて、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であったが、新聞記者としてフランスのドレフュス事件︵1894年︶の取材にあたったとき、いまだ根強いユダヤ人に対する偏見に遭遇してショックを受け、またモーゼス・ヘスの影響も受け、失われた祖国イスラエルを取り戻すシオニズム運動を起こした。 1893年、キリスト教社会党党首で反ユダヤ主義を主張していたカール・ルエーガーがウィーン市長に選ばれたことに衝撃を受ける。ヘルツルは、﹁ユダヤ人の間には一種の絶望感が漂っている﹂と日記に記した[1]。同じ頃の東ヨーロッパでのユダヤ人迫害︵ポグロム︶、また、当時のオーストリアにおけるルエーガーやゲオルク・フォン・シェーネラーによる反ユダヤ主義的大衆運動に接することによって、彼の態度が鮮明になったといわれる。死後の顕彰・関連[編集]
- 1968年発行の旧100イスラエル・リラ紙幣から1978年発行の旧10シェケル紙幣まで肖像が使用されていた。
- ライフ誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。
脚注[編集]
参考文献[編集]
●臼杵陽﹃見えざるユダヤ人 - イスラエルの<東洋>﹄平凡社、1998年3月。 ●マーディン・ギルバート 著、千本健一郎 訳﹃イスラエル全史︵上︶﹄朝日新聞出版、2008年12月。ISBN 978-4-02-250494-4。関連項目[編集]