ハロルド・ロウ
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/82/Harold_Lowe.jpg/180px-Harold_Lowe.jpg)
ハロルド・ゴッドフリー・ロウ︵英: Harold Godfrey Lowe, 1882年11月21日 - 1944年5月12日︶は、イギリスの航海士、海軍軍人。客船タイタニック号の五等航海士であり、同船の沈没事故から生還した。
経歴[編集]
ウェールズ・コンウィ・スランロス出身。リヴァプールの実業家のもとで見習いとして働いていたが、﹁ただ働きはまっぴら﹂と言って、そこを飛び出し、14歳の時から縦帆式帆船でキャビンボーイとして働くようになった。その後横帆艤装の船に移り、西アフリカ航路で働いた[1]。1906年には二等航海士資格 (second mate's certificate)、1908年には一等航海士資格 (first mate's certificate) を得る。 1911年にホワイト・スター・ラインに入社し[1]、船長資格 (Master's certificate) を取得した。同社のベルジック号 (Belgic) とトロピック号 (Tropic) に三等航海士として勤務した[2]。 1912年4月10日から処女航海に出たタイタニック号に五等航海士として乗船した。4月14日午後11時40分頃、タイタニックが氷山に衝突した時には寝ており、4月15日に入った午前0時45分頃に騒々しい物音で目を覚ますまで事態に気が付かなかった︵彼は何故か他の乗組員から存在を忘れられており、誰も起こしに来なかった︶。目を覚ますとすぐに異常に気付いて右舷ボートデッキに出て5号ボートを降ろす作業を手伝った[3]。 午前1時30分頃に13号ボートを降ろされるのを見届けると、左舷側の14号ボートと16号ボートのところへ行き、六等航海士ジェームズ・ポール・ムーディに﹁今送り出した5艘には航海士が1人も乗っていない。だからこの2艘のどちらかには乗せなきゃ﹂と告げたが、ムーディは﹁お先にどうぞ。私は別のボートに乗ります﹂と答えたため、ロウは14号ボートに乗客たちを乗せた後、自らも14号ボートの船尾に乗ってタイタニックを脱出した[4]。 14号ボートをタイタニックから離れさせた後、ロウは海に落ちた人々の救出のために戻ることを決意した。10号ボート、12号ボート、折り畳み式D号ボートを集結させると船首と船尾を結ばせ、縦1列にして14号ボートの乗客を他のボートに移した。この作業に小一時間ほど費やした後、ようやく14号ボートは沈没現場へ向かいはじめた[5]。 ロウは叫び声が﹁まばら﹂になるのを待ってから向かうことを考えていたというが、氷点下の海中に落ちた人間は極めて短時間で凍死することを彼は知らなかった[6][7]。14号ボートが戻ってきた時にはほとんどの人はすでに息絶えていた。結局、救出できたのは客室係ジョン・ステュアート (John Stewart) と、木のドアの上に乗って流れてきた東洋人だけだった[8]。その後、午前7時少し前に14号ボートはカルパチア号に救出された[9]。 事故後、1913年9月にエレン・マリオン・ホワイトハウス (Ellen Marion Whitehouse) と結婚[2]。第一次世界大戦の勃発で王立海軍の予備役将校となる。戦後は海に戻ることなく、北ウェールズで暮らし、1944年5月12日に死去した[2][10]。人物・逸話[編集]
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/59/Titanic_surviving_officers.jpg/230px-Titanic_surviving_officers.jpg)
脚注[編集]
出典[編集]
- ^ a b バトラー 1998, p. 98.
- ^ a b c Encyclopedia Titanica. “Mr Harold Godfrey Lowe” (英語). Encyclopedia Titanica. 2018年8月25日閲覧。
- ^ ペレグリーノ 2012, p. 121-122.
- ^ バトラー 1998, p. 210.
- ^ バトラー 1998, p. 251-252.
- ^ a b c バトラー 1998, p. 252.
- ^ ペレグリーノ 2012, p. 335.
- ^ バトラー 1998, p. 252-253.
- ^ バトラー 1998, p. 268.
- ^ バトラー 1998, p. 388.
- ^ バトラー 1998, p. 210-211.
- ^ バトラー 1998, p. 211.
- ^ a b ペレグリーノ 2012, p. 57.
- ^ ペレグリーノ 2012, p. 145-146/337.
- ^ ペレグリーノ 2012, p. 145.