MAVO
(マヴォから転送)
MAVO︵マヴォ︶とは、日本のダダ運動の先駆をなすグループ。
﹃マヴォ﹄第3号 1924年9月。
翌1924年7月、斬新なデザインや版画を収めた機関誌﹃マヴォ﹄を創刊[2][4]。テーマは狭義の美術としての絵画や彫刻のみならず演劇や建築まで多岐に渡り、西洋の思想や理論の紹介も交えながら、1925年までに7号が刊行された[3]。内容だけでなく装飾においてもデザインにおける実験性が随所に見られる[3]。このうち3号は、高見沢路直の癇癪玉をコラージュした︽ラシヤメンの像︾を表紙にしていたため、発禁回収処分になった[2]。
﹁葵館﹂外観︵彫刻家・荻島安二によるレリーフ︶[8]。
関東大震災の復興の途にあった1924年、マヴォは建築団体に混じって﹁帝都復興創案展﹂に参加し、﹁マヴォ理髪店﹂や﹁葵館﹂といった実際の建築にも携わった[5]。同年10月、マヴォを含む新興芸術の諸団体によって結成された﹁三科﹂の展開に相乗して、マヴォの脱領域性は一弾と高まる[5]。
一くせも二くせもある個性ゆたかな人々がよりあつまるこのグループは、絵画よりも、むしろ他の分野を重視し、活動範囲が立体作品︵彫刻︶、建築、広告・デザイン、演劇、ダンスなどから、当時震災後のバラック設計から舞台、ポスター、彫刻、詩、文学と幅広く、そのうえトラックにのってピストルをぶっぱなちつつ、警官隊に追われながら銀座の街をデモンストレーションする[要出典]といった派手きわまりない行動により、当時からジャーナリズムの目をひき、今も前衛芸術運動史に確かな位置を占めており、このグループについて書かれたものも少なくはない。
1925年9月にマヴォの過激派である岡田龍夫らが三科展の会場にて騒動を起こし、三科は解散。それに伴ってマヴォも休止した[3][4]。