岡本唐貴
岡本 唐貴︵おかもと とうき、1903年12月3日 - 1986年3月28日︶は、プロレタリア画家、洋画家。本名・岡本登喜男。
生涯芸術活動に身を染め、ダダイスム、シュルレアリスムなどの影響を受けた絵画、写生画を数多く残す。
長男は漫画家の白土三平︵本名・岡本登︶、長女は絵本作家の岡本颯子。
年表[編集]
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●1903年︵明治36年︶‥岡山県浅口郡連島町︵現在の倉敷市︶に三男として生まれる。
●1918年︵大正7年︶‥米騒動、労働争議を目撃、思想的に大きな影響を受ける。
●1919年︵大正8年︶‥父・弥平次死去。農業の傍ら油絵の勉強を始める。
●1920年︵大正9年︶‥神戸市で浅野孟府と出会い、二人で上京し、原宿にて共同生活を始める。
●1921年︵大正10年︶‥浅野と彫刻家・戸田海笛のアトリエに住み、油絵のかたわら彫刻を学ぶ。
●1922年︵大正11年︶‥東京美術学校︵現・東京芸術大学︶彫刻選科に入学。翌年退学。
●1923年︵大正12年︶‥関東大震災のため、神戸市に移る。二科会内の急進グループ・アクションに参加。
●1924年︵大正13年︶‥二科会を離れ、神原泰、矢部友衛らと三科造形美術協会の結成に参加。
●1926年︵昭和1年︶‥東京に移る。神原泰、矢部友衛、浅野孟府らとグループ造型の結成に参加。
●1928年︵昭和3年︶‥グループ造型を造型美術家協会として再組織。︵全日本無産者芸術連盟︵ナップ︶発足︶
●1929年︵昭和4年︶‥ナップ改組による日本プロレタリア美術家同盟︵ヤップ︶の結成に参加。黒澤明に絵を教える。
●1930年︵昭和5年︶‥相馬君子︵塩谷太郎の妹︶と結婚。
●1931年︵昭和6年︶‥︵所属のナップにさらに団体が追加され、日本プロレタリア文化連盟︵コップ︶が成立︶
●1932年︵昭和7年︶‥2月、長男・登︵白土三平︶が生まれる。夏、特高に検挙・投獄される。神戸市に移る。
●1933年︵昭和8年︶‥東京に出、同志小林多喜二の死顔を描く。大阪にて、浅野孟府と共同展開く。北海道に行く。
●1934年︵昭和9年︶‥受けた拷問からの発病︵以降5年間の闘病生活︶。
●1937年︵昭和12年︶‥大阪にて個展。
●1938年︵昭和13年︶‥新潟にて個展。東京練馬に画室を立てる。
●1940年︵昭和15年︶‥満州・北京に行く。大連、奉天にて個展。
●1944年︵昭和19年︶‥夏、一家で長野県に疎開。冬、住まいを移す︵同じ長野県内︶。
●1945年︵昭和20年︶‥2月、長女・颯子が生まれる。8月、この地で終戦。
●1946年︵昭和21年︶‥矢部友衛、山上嘉吉、寺島貞志、市村三男三らと現実会の結成に参加。日本美術会の結成に参加。
●1948年︵昭和23年︶‥現実会解散。共産党入党︵1958年離党︶。
●1950年︵昭和25年︶‥ソヴェート美術研究会を結成。
●1953年︵昭和28年︶‥大阪にて個展。
●1955年︵昭和30年︶‥寺島貞志、村雲大撲子、石垣栄太郎、別府貫一郎、後藤禎二、山上嘉吉と点々会を創立。
●1956年︵昭和31年︶‥東京にて個展。
●1961年︵昭和36年︶‥東京にて個展。
●1962年︵昭和37年︶‥訪ソ。
●1963年︵昭和38年︶‥1月、母・留與死去︵82歳︶。
●1967年︵昭和42年︶‥創作画人協会の結成に参加。
●1981年︵昭和56年︶‥妻が死去。
●1986年︵昭和61年︶‥82歳で死去。