ミツハタ
表示
ミツハタ | |
---|---|
現役期間 | 1950年 - 1952年 |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 栗毛 |
生誕 | 1948年4月20日 |
死没 | (不明) |
父 | クモハタ |
母 | ニュージランド |
母の父 | ダイオライト |
生国 | 日本(北海道浦河町) |
生産者 | 近藤俊明 |
馬主 |
河野信一 河野徳 |
調教師 |
東原玉造(中山) →矢野幸夫(中山) |
競走成績 | |
生涯成績 | 36戦16勝 |
獲得賞金 | 6,550,360円 |
ミツハタは日本のサラブレッド競走馬。1952年の天皇賞︵春︶優勝馬である。
来歴[編集]
同世代の競走馬は、トキノミノル、イツセイらが挙げられる。 なお、36戦すべて、芝コースでの出走である。1950年[編集]
10月22日、未出未受︵東京競馬場、以下 東京︶でデビューし1着。2戦目の11月5日の10万円下︵東京︶も勝った。12月10日に行われた朝日杯3歳ステークス︵中山競馬場、以下 中山︶では4番人気に推されたが、勝ったトキノミノルに8馬身の差をつけられ4着に終わった。1951年[編集]
4月7日のオープン︵中山︶を勝ち3勝目。矢野幸夫の鞍上では2戦目となった4月29日の4歳特別︵東京︶では、2分05秒0のレコード勝ちを収めた。この一戦以後しばらく、矢野が鞍上を務めることになる。 5月13日の皐月賞では3番人気に支持されたが、トキノミノルが勝ち、当馬はイツセイにハナ差およばず3着となった。 続く6月3日の東京優駿では5番人気となったが、皐月賞同様に、トキノミノル、イツセイに次いで3着。しかしイツセイには5馬身差をつけられた。したがってこの時点では、当馬はトキノミノルの脇役にすぎなかった。 ところが6月20日、トキノミノルが破傷風で急死したことで、その後の同世代の勢力図は変わっていく。 秋シーズンは西下せず、関東でのレースに専念した当馬は、9月16日の特ハン︵東京︶を勝ち、連闘となった9月23日、菊花賞を目指すイツセイと毎日王冠︵東京、当時2500m︶で対戦。イツセイに1馬身3/4をつけ、2分36秒2のレコードをマークし、初の重賞勝ちを収めた。続く10月6日のオープン︵中山︶も勝って3連勝。 だが10月14日のカブトヤマ記念︵中山︶では、西下直前のイツセイと対戦したが、5馬身差の2着に終わった。 その後、11月4日の特ハン︵東京︶を勝利。11月25日のセントライト記念︵東京、当時2400m︶ではイツセイに続き2番人気となったが、今度はイツセイに3馬身の差をつけて勝った。 その後、12月9日の中山特別︵中山、2400m︶において、2分31秒3のレコード勝ちを収めた。1952年[編集]
同年に矢野が調教師へと転身したため、主戦は渡辺正人に替わった。また、管理調教師も東原玉造から矢野へと替わった。 3月15日のオープン︵東京︶から始動。67キロの負担重量を背負いながらも勝った。続く3月21日の東京特別︵東京︶も勝利した。 その後、天皇賞︵春︶を目指し西下。5月3日の天皇賞︵京都競馬場、3200m︶では1番人気に支持された。天皇賞では、前年の菊花賞でイツセイを3着に沈めて勝った2番人気のトラツクオーの粘りにてこずり、最後は頭差となったが、3分23秒1のレコードタイムで制した。 その後、5月18日の東京杯︵現在の東京新聞杯、東京。当時2400m︶では2分29秒2のレコードタイムをマークしてイツセイを下し、5月31日のオープン︵中山︶では、69キロを背負いながらも勝った。 続く6月8日の中山ステークス︵中山︶ではイツセイの2着に終わったが、6月22日の春の目黒記念︵東京、2500m︶では、73キロの斤量を背負いながらも、2分35秒0のレコードタイムをマークし、2着のトキツオーに3馬身半の差をつけて勝利。一方、イツセイは3着に終わった。しかし、このレースが当馬にとって最後の勝利となった。 その後、秋は5戦するも、70キロの斤量を背負うレースが3つもあったこともあり精彩を欠き、2着2回が最高の着順だった。結局、11月22日のオープン︵東京︶の2着が最後のレースとなった。エピソード[編集]
●﹃大川慶次郎が選ぶ﹁個性派﹂名馬18頭﹄︵ザ・マサダ発行︶によると、大川慶次郎が競馬評論家への道へと進むきっかけとなった馬は、このミツハタである。トキノミノルの急死後、同世代のナンバーワンは朝日杯、皐月賞、東京優駿でいずれも2着となったイツセイであるとの、多くの競馬評論家の論評に対し﹁イツセイの血統では基本的に、2000mを超える距離はもたない。対してミツハタは2400m以上の距離だと真価を発揮する。﹂という自負があったのがその理由だが、大川の見立て通り、イツセイは生涯21勝を挙げたものの、2000mを超える距離では一度も勝てず、ついにクラシックレースおよび天皇賞制覇を果たせぬまま引退した。対してミツハタは、2400m以上の距離では実に7勝を挙げ、内5回がレコード勝ちであった。 ●主戦騎手を務めた渡辺正人も、ミツハタが生粋のステイヤーであったことを証言している[1]。 ●天皇賞を制した時は上述の通りトラツクオーとのデッドヒートになったが、叩き合いに自信のあった渡辺は最後の直線で先行するトラツクオーにピタッと馬体を寄せて叩き合いに持ち込んだ。その寄せ幅は、トラツクオー鞍上の小林稔が振るったムチが渡辺に当たるほどであった。レース後、渡辺が勝負服を脱いで確認したところ、ムチで叩かれた痕が4本くっきりと残っていたという[2]。 ●上記のように菊花賞には出走していない。菊花賞優勝馬トラツクオー鞍上の小林稔は、﹁なんで出てこなかったのか分からない。出走していたらミツハタが菊花賞を勝っていただろう。﹂という趣旨の発言をしている。競走成績[編集]
この節の加筆が望まれています。 |
主な産駒[編集]
血統表[編集]
ミツハタの血統 (タッチストン系 / アウトクロス) | (血統表の出典) | |||
父 クモハタ 1936 栗毛 |
父の父 *トウルヌソルTournesol 1922 鹿毛 |
Gainsborough | Bayardo | |
Rosedrop | ||||
Soliste | Prince William | |||
Sees | ||||
父の母 *星旗Fairy Maiden 1924 栗毛 |
Gnome | Whisk Broom | ||
Faiery Sprite | ||||
Tuscan Maiden | Maiden Erlegh | |||
Tuscan Red | ||||
母 ニュージランド 1940 黒鹿毛 |
*ダイオライト 1927 黒鹿毛 |
Diophon | Grand Parade | |
Donnetta | ||||
Needle Rock | Rock Sand | |||
Needlepoint | ||||
母の母 *レディライモンドLady Limond 1922 鹿毛 |
Limond | Desmond | ||
Lindal | ||||
Cintra | Eton | |||
Cyrense F-No.4-d |
脚注[編集]
- ^ メルボルン二世の思い出の中の地方競馬 - 2010年8月27日付記事
- ^ 渡辺正人『言えなかった競馬の本』株式会社青春出版社、1983年2月17日、138-140頁。