ヴィルヘルム・ビットリヒ
ヴィルヘルム・ビットリヒ Wilhelm Bittrich | |
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ヴィルヘルム・ビットリヒSS少将(1942年) | |
生誕 |
1894年2月26日 ドイツ ヴェルニゲローデ |
死没 |
1979年4月19日 (85歳) 西ドイツ ヴォルフラーツハウゼン |
所属組織 | 武装親衛隊 |
軍歴 |
1932年-1945年(一般親衛隊) 1934年-1945年(親衛隊特務部隊・武装親衛隊) |
最終階級 | 親衛隊大将 |
ヴィルヘルム・ビットリヒ︵ドイツ語: Wilhelm Bittrich、1894年2月26日‐1979年4月19日︶はドイツの軍人。ドイツの政党国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の武装組織武装親衛隊(Waffen-SS)の将軍。最終階級は親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)および武装親衛隊大将(General der Waffen-SS)。
アルンヘムの戦いの勝利で戦史に名を残す[1]。愛称はヴィリー(Willi)[2]。
1942年6月21日、東部戦線。ヘルマン・フェーゲライン親衛隊大佐 ︵左︶とヴィルヘルム・ビットリヒ親衛隊少将︵階級はいずれも当時︶
﹁ライプシュタンダーテ アドルフ・ヒトラー﹂の所属で対ポーランド戦争を戦った。1940年2月にベルリンの親衛隊本部へ呼び戻され、第3SS装甲師団﹁髑髏﹂の編成に携わった。対フランス戦争には﹁髑髏﹂師団に所属して従軍した[7]。
1941年6月から始まるバルバロッサ作戦には第2SS装甲師団﹁ダス・ライヒ﹂所属の﹁ドイッチュラント﹂連隊連隊長として参加した。1941年10月から同年12月にかけては負傷したパウル・ハウサーに代わって﹁ダス・ライヒ﹂師団の師団長となった。ビットリヒ指揮下の﹁ダス・ライヒ﹂はモスクワ攻略作戦︵タイフーン作戦︶に参加し、モスクワまで数マイルまで迫った[1]。この作戦の戦功で騎士鉄十字章を受章している。1942年8月から1943年2月まで第8SS騎兵師団﹁フロリアン・ガイエル﹂の師団長となり、ルジェフやオリョール地区での防御戦に参加した。
1943年2月から1944年6月にかけて第9SS装甲師団﹁ホーエンシュタウフェン﹂の師団長としてタルノポリへの反撃作戦などに参加し、ストリパ川地区で激戦を指揮した。1944年6月から再びハウサーの後任として第2SS装甲軍団︵第9SS装甲師団と第10SS装甲師団︶の軍団長となり、上陸してきた連合軍を迎えうった。8月、カーンにおいてアメリカ軍に包囲されかけたが、突破に成功している。この件はビットリヒの評価を高めた。この戦功で柏葉付騎士鉄十字章を受章した。ドイツ軍がオランダへ後退したのち、9月17日にイギリス軍がマーケット・ガーデン作戦を開始。英軍はビットリヒの第2SS装甲軍団が陣を構えていたアーネムへ降下してきたが、イギリス軍の作戦の粗雑さもあってビットリヒは撃退に成功した。これが西部戦線におけるドイツ軍の最後の勝利であった。
この後、ヨーゼフ・ディートリヒの指揮下で引き続き第2SS装甲軍団を指揮し、ラ・ロッシュ=シュル=ヨン北方のグランドメニルまで進撃した。1945年3月からはビットリヒの第2SS装甲軍団はハンガリーに転戦した。﹁春の目覚め作戦﹂に参加し、ソ連軍と激闘した。1945年4月からはウィーン防衛の総指揮をとった。5月に騎士鉄十字章剣章を受章した。
1945年5月8日、アメリカ軍によって逮捕された。身柄はアメリカ合衆国政府からフランス政府に引き渡され、17名のレジスタンス処刑命令を出した廉でフランスの軍事裁判にかけられ、1953年6月に5年の実刑判決を受けた。また別の国家犯罪でも法廷にかけられたが、こちらは無罪となった。1954年に釈放された[2]。1972年にはパウル・ハウサーの後を継いで旧武装親衛隊員相互扶助協会(HIAG)の名誉議長に就任し、死去まで務めた[8]。1979年にバイエルン州ヴォルフラーツハウゼンで死去した[8]。
映画﹁遠すぎた橋﹂ではマクシミリアン・シェルがビットリヒを演じた。