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三方楽所

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歴史[編集]


10退

81603243825051665505720002000
家領米 510 三方17名ずつ計51名に10石ずつ
師匠料 90石 三方3名ずつ計9名に10石ずつ
上芸料 200石 5石ずつ
中芸料 3石ずつ
稽古料 200石 51名以外に給する
1000石 (五ツ物成)

明治を迎えると、三方楽所の楽人は東京へ移り、江戸幕府の紅葉山楽人と合流して宮内省雅楽部に編成され、現在は宮内庁式部職楽部として活動しており、宮内庁式部職楽部の雅楽は重要無形文化財に指定されている。

また、天王寺方の伝統を受け継ぐ聖霊会の舞楽重要無形民俗文化財であり、南都方は春日大社を中心として、雅楽のみならず、田楽、細男などの古楽もあわせて伝承し、「春日古楽保存会」雅楽部門を経て「南都楽所」を結成、「南都楽所」による春日若宮おん祭の神事芸能も重要無形民俗文化財に指定されている。

楽家[編集]

楽家一覧(『楽家録』元禄3年)
三方 家芸
南都方 藤原 龍笛・舞
鳳笙
鳳笙
龍笛
龍笛
篳篥
久保 篳篥
大神 鳳笙
西京 龍笛
井上 龍笛
篳篥
天王寺方 太秦 鳳笙・左舞
鳳笙・右舞
東儀 篳篥・右舞
龍笛・左舞
安倍 東儀 篳篥
京方 豊原 鳳笙
大神 山井 龍笛
安倍 安倍 篳篥・神楽歌・舞
神楽歌・舞

13684977812



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三方及第[編集]

三方楽所の51名の楽人は上芸・中芸・次芸の3階級に分けられ、上芸・中芸の者には芸料が加給される仕組みであった。この階級を決定するのが三方及第あるいは楽講とよばれる全員参加型の実技試験制度である。寛文5年(1665年)に始まり、慶応元年(1865年)まで特別な事情がないかぎり4年ごとに行われた。

楽講は、各回で調子を変えながら、壱越調・平調・双調・黄鐘調・盤渉調(天保以後は太食調も)の順に日を改めながら行われた。課目は三管(篳篥龍笛)のみで、助奏として鞨鼓太鼓のみが演奏され、曲目はすべて左方楽(唐楽)であった。上芸・中芸のいずれを受験するかをあらかじめ決め、楽講が終わった後の入札で過半数を得れば及第である。入札は各方8名が自分の属している以外の二方の受験生に対して入札するものであるが、公平を期するために上芸者のうちその年に助奏をしなかったものが最終回の楽講の前に選ばれてさらに誓状を提出していた。試験当日になってくじ引きで曲目と演奏者の組み合わせが決定されるため、左方楽の全曲目について修練を積まねばならず、したがって楽講は雅楽の伝承と洗練に大きな役割を果たしてきた。

三方は地域別の流派のようなものであったし、その中でも家ごとに秘伝秘曲の伝承をする一種の家元制が行われていた。しかし三方及第はそうした流儀を越えて技を競い批評し合うシステムであったと考えることができ、これは日本の伝統芸能の中では特異なものである。明治になって宮内省雅楽部が組織された後も、その試験法は基本的には三方及第を踏襲したものであった。

関連項目[編集]

近代以降の主な楽人[編集]

参考文献[編集]

  • 西山松之助 『家元の研究』吉川弘文館〈西山松之助著作集〉第1巻、160 - 258頁、1982年

外部リンク[編集]