三木竹二
三木 竹二︵みき たけじ、慶応3年9月5日︵1867年10月2日︶ - 明治41年︵1908年︶1月10日︶は、明治の劇評家で、医師。本名は森 篤次郎︵もり とくじろう︶。兄は小説家の森鷗外、妹は翻訳家・歌人・随筆家の小金井喜美子。
来歴[編集]
大政奉還の直前、石見国津和野に津和野藩医・森静泰︵のちに静男と改名︶と峰子の間に次男として生まれた。廃藩置県などによって5歳のときに上京する。子供の頃は、鷗外よりも才があったという[要出典]。 12歳の頃、男爵の河田佐久馬︵旧鳥取藩士、元老院議官で1887年子爵に叙せられた︶に大変気に入られて養子縁組が決まり、本人もその気になっていた。しかし、親戚から横槍が入った河田家が財産譲与額の変更を第三者を介して伝えてくると、金のことを問題にしたことと、それを人の口を介して告げてきた誠意のない態度に若い鷗外が激怒して破談となった。その鷗外は、両親に﹁この度の話は僕が破ったようなものですから、今後一生篤︵竹二︶の事は引き受けますから﹂といい、その後ふさぎがちな竹二の気晴らしにすすめた芝居見物が、一生続いた趣味の発端となった。ちなみに母、峰子も芝居好きであった[1]。 帝国大学医科大学︵現東京大学医学部︶在学中から、﹃しがらみ草紙﹄[2]や﹃読売新聞﹄に劇評を書いていた。歌舞伎は江戸期より飲食しながら楽しむのが普通であり、劇評家も杯を片手に観劇していた当時、学生服の竹二は、手帖に芝居の型などを記しながら熱心に観劇していた。学生のその姿はひときわ目立ち、中には芝居について意見を聞きに来る役者もいた。従来、誰も手をつけなかった芝居の型を忠実に記録することに努めたこともあり、後年その型書で得をした役者も多く、また手帖は100冊近かったという。もっとも、大学への出席日数が多くなく、周囲が卒業を危ぶんだ。 1888年︵明治21年︶兄・鷗外がドイツから帰国した後、ドイツ人女性が来日して滞在1か月︵1888年9月12日 - 10月17日︶ほどで離日する出来事があり、小説﹁舞姫﹂の素材の一つとなったが、竹二は、義弟小金井良精︵年齢は竹二より上︶とともに、女性への説得にあたった。 1890年9月に無事卒業し、伊勢錠五郎の助手として母校の脚気病室に勤務する。駒場の東京帝国大学農科大学︵現農学部︶で校医をしたり、日清戦争時に後送される傷病兵が増加すると、衛戍病院にも出かけたりした。そうした勤務医時代に早く診察する癖がつき、後年開業医となっても、その癖が直らなかったという。また卒業後も劇評を続け、1892年から雑誌﹃歌舞伎新報﹄の編集に当たった。1894年5月に判事、長谷文の長女久子と結婚する。仲人は﹃歌舞伎新報﹄主筆の岡野碩であった。 開業した医院の近所に住んでいた安田善之助︵実業家安田善次郎の息子︶と知り合い、休刊した﹃歌舞伎新報﹄を引きつぐように1900年1月、善之助の出資で雑誌﹃歌舞伎﹄を創刊した[3]。体調を崩す中、1907年12月中頃から声がつぶれ、同月25日賀古鶴所の院長である耳科院に入院したものの、翌年1月6日東大外科の佐藤三吉教授の手術を受けたが、当夜大出血のため1月10日に窒息死した[4]。享年40。 翌朝9時、兄森鴎外が検閲旅行から帰って、新橋駅に迎えに来た弟潤三郎から篤次郎の死をきき、すぐに東大に行き解剖に立ち会って卒倒したことが小説﹁本家分家﹂に写してある。演劇界での業績[編集]
上述のように、学生時代より歌舞伎の劇評家として活躍した。﹃歌舞伎﹄での執筆と責任編集は、1907年12月の92号が事実上の最後であり、また開業医のかたわら、死の直前まで医学雑誌の仕事と新聞3紙の劇評とを引き受けていた[5]。その﹃歌舞伎﹄は、竹二の没後に数か月ほど休刊したものの、伊原青々園が中心になって1914年12月の174号まで刊行された。とくに節目の100号は、竹二の追悼号とされ、多くの人が文などを寄せた。 竹二の業績について﹁画期的な仕事であり、今日もなお権威を失わず、歌舞伎演出研究には欠かせない﹂と評された[6]。なお鷗外とは、共訳や雑誌発行などで文芸活動をともにした。鷗外は、弟が責任編集を務める﹃歌舞伎﹄に翻訳戯曲と西洋演劇の紹介記事などを多数提供しており、また鷗外作品の一部に亡弟の影が浮かんでいた[7]。 歌舞伎の型などを研究し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した。その劇評をまとめ﹃観劇偶評﹄︵岩波文庫︶が刊行している。また、森まゆみ﹃鴎外の坂﹄によると、妻・久子も白井真如の名で劇評を書いていたとし、彼女や岡田八千代など、女性の劇作家・劇評家を育てたことも大きな業績であるとしている。なお、久子は竹二没後、建部遯吾と再婚した。脚注[編集]
(一)^ 竹二は、ほかの兄弟と同じように母に優しく、面白いと思った芝居に後日、母を連れて行った。後年、30代の竹二が高齢の母を気づかいながら、劇場内を移動する様子が見られた。
(二)^ 執筆だけではなく、公務などで多忙な鷗外に代わり、校正や渉外的な役割も担った。渉外の様子は、樋口一葉の日記︵明治29年6月2日、同11日、7月20日など︶にも残された。小金井︵2001︶、158-164頁。
(三)^ 創刊号は、題字・尾崎紅葉、表紙絵・中村不折。なお金子幸代は、﹁当時の演劇状況を網羅し、毎月の各座の劇評を載せる演劇研究の総合雑誌として重要な位置にあったこと、また編集者として型の記録に心血をそそいだ竹二を高く評価した﹂と石川淳の評を要約した上で、﹁いわば﹃歌舞伎﹄の魅力は、伝統演劇、歌舞伎の見功者であった竹二と、ドイツの近代演劇を実際に見てきた鷗外という二つの音色がかもしだす清新なハーモニーであったと考えられる﹂とした。
(四)^ 最期の様子は、小金井︵2001︶が詳しい。
(五)^ 小金井︵2001︶、200頁。
(六)^ ﹃演劇百科大辞典﹄、289頁。
(七)^ 史伝の﹃渋江抽斎﹄と﹃伊沢蘭軒﹄に登場する芝居好きの人々、未刊行の小説﹃本家分家﹄など。とりわけ﹃本家分家﹄では、竹二を次のように書いた。﹁博士と弟とは喧嘩というほどの喧嘩をしたことがない。それは弟が兄を凌ぐことがあっても、兄は笑っており、後には弟が後悔したからである。二人の次に生まれた妹は、嫡男の博士にそっくりの女で、博士とは何事につけても諧和し、﹁小さい兄さん﹂の俊次郎を抑制するようにしていた﹂。その妹、小金井喜美子は、竹二を次のように書いた。校正などが﹁綿密で、凝性で、一刻で、正直というのが特質でしたから、自然ひどく人の好嫌をされました。嫌うのは嘘つきと見栄坊なのでした﹂、2001年、172頁。また喜美子は、回想記で竹二を活写し、雑誌﹃しがらみ草紙﹄や﹃歌舞伎﹄や新聞記事など、竹二に関する記録を多く書き残した。