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丘 遅︵丘遲、きゅう ち、464年 - 508年︶は、南朝梁の官僚、文人。字は希範。本貫は呉興郡烏程県。
斉の太中大夫の丘霊鞠の子として生まれた。8歳で文章を作ることができ、父の霊鞠は気骨が自分に似ていると評していた。謝超宗や何点は丘遅に会って尋常の人物ではないと評価した。丘遅は成長すると、揚州に召し出されて従事となり、秀才に挙げられ、太学博士に任じられた。大司馬行参軍に転じたが、父が死去したため、職を辞して喪に服した。喪が明けると、西中郎参軍に任じられた。諸官を歴任して殿中郎となったが、母が死去したため、また職を辞して喪に服した。喪が明けると、再び殿中郎となり、車騎録事参軍に転じた。蕭衍が建康を平定して摂政政府を開くと、丘遅は召し出されて驃騎主簿となり、厚い礼遇を受けた。当時、梁王︵蕭衍︶に特別待遇︵九錫︶を求めた文や天子になるよう勧進した文は、すべて丘遅の手で書かれた。
天監元年︵502年︶、蕭衍︵梁の武帝︶が即位すると、丘遅は散騎侍郎の位を受けた。まもなく中書侍郎に転じ、呉興邑中正を兼ね、文徳殿で待詔をつとめた。武帝が連珠︵文体の一種︶を書くと、群臣に命じて数十人にその続きを書かせたが、丘遅の書いたものが最も美しかった。天監3年︵504年︶、永嘉郡太守となったが、郡にあって太守らしい仕事をせず、御史に糾弾された。武帝は丘遅の才能を愛して、弾劾の上奏を取りあげなかった。
天監4年︵505年︶、臨川王蕭宏が北伐をおこなうと、丘遅はその下で中軍諮議参軍となり、記室を兼ねた。ときに陳伯之が北魏にあり、梁軍の北進を阻んでいたが、丘遅は﹁陳伯之に与うる書﹂を書いて説得し、陳伯之を梁に帰順させた。建康に帰って中書郎に任じられ、司徒従事中郎に転じた。天監7年︵508年︶、在官のまま死去した。享年は45。
﹃隋書﹄経籍志︵﹃隋志﹄︶には﹁梁の国子博士丘遅集10巻﹂︵梁代には11巻︶とあるが伝わらない。﹃隋志﹄にはまた﹁梁に集鈔40巻有り、丘遅撰、亡ぶ﹂とある。詩は鍾嶸の﹃詩品﹄では中品とされ、﹁点綴映媚にして、落花の草に依るに似たり﹂︵あでやかさな美しさがちりばめられ、草の上に花びらが散ったかのようだ︶と評価されているが、現存するのは11首にすぎない。
伝記資料[編集]