中村拓道
中村拓道 なかむら たくどう | |
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生年月日 | 1911年4月22日 |
出生地 | 日本 青森県青森市 |
没年月日 | 1974年5月28日(63歳没) |
出身校 |
青森県師範学校卒業 (現・弘前大学教育学部) |
前職 | 青森県職員 |
所属政党 |
(無所属→) 自由民主党 |
子女 | 中村寿文 |
選挙区 | 旧青森1区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1969年12月27日 - 1974年5月28日 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1965年11月17日 - 1969年11月16日 |
青森県議会副議長 | |
当選回数 | 4回 |
在任期間 | 1951年 - ? |
中村 拓道︵なかむら たくどう、1911年︵明治44年︶4月22日[1] - 1974年︵昭和49年︶5月28日[2]︶は、日本の政治家。青森県八戸市の12代目市長。
来歴・人物[編集]
1911年︵明治44年︶4月、 青森市に生まれる。旧制青森中学校︵現青森県立青森高等学校︶を経て、1930年︵昭和5年︶、青森県師範学校を卒業し、小学校で教鞭を執る[2]。1941年︵昭和16年︶、 青森県庁に入庁[3]。地方事務所長などを歴任する。1951年︵昭和26年︶ 、青森県議会議員に立候補して初当選[1][4]、連続四期在職する[3]。農林商工水産農地副委員長、予算特別委員長、水産商工公安副委員などを経て[3]、1961年︵昭和36年︶、 県議会副議長に就任[2]。1964年︵昭和39年︶、東北電力(株)監査役に就任[3]。1965年︵昭和40年︶、現職の岩岡徳兵衛を破って八戸市長に就任[2]。 1969年︵昭和44年︶12月、衆議院議員総選挙に初当選[5]。 1972年︵昭和47年︶12月、 衆議院議員総選挙に再選[5]。1974年︵昭和49年︶5月28日 、在職中に死去。脚注[編集]
関連人物[編集]
●中村寿文 - 息子。第21代八戸市長。参考文献[編集]
●﹃大衆人事録﹄第19版、東日本篇、帝国秘密探偵社、1957年。 ●歴代知事編纂会編﹃日本の歴代市長﹄第1巻、歴代知事編纂会、1983年。 ●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。 ●朝日新聞選挙本部編﹃朝日選挙大観﹄朝日新聞社、1997年。公職 | ||
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先代 岩岡徳兵衛 |
青森県八戸市長 1965年 - 1969年 |
次代 秋山皐二郎 |