了庵慧明
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りょうあんえみょう 了庵慧明 | |
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建武4年/延元2年(1337年) - 応永18年(1411年)3月27日 | |
生地 | 相模国(現・神奈川県) |
没地 | 相模国(現・神奈川県) |
宗旨 | 禅宗 |
宗派 | 曹洞宗 |
寺院 | 最乗寺 |
師 | 通幻寂霊 |
了庵慧明︵りょうあんえみょう、建武4年/延元2年︵1337年︶ - 応永18年︵1411年︶3月27日︶は南北朝時代から室町時代前期の曹洞宗の僧。
略歴[編集]
相模国糟谷︵現・神奈川県伊勢原市︶に生まれたとされ、俗姓は藤原氏[1]。実妹に同じく曹洞宗の尼僧として知られる慧春尼が居る[2]。 臨済宗円覚寺の不聞契聞の元で出家した後、諸国の著名な禅僧を訪ねて歩いた[3]。摂津国の永澤寺で通幻寂霊に出会ったことで曹洞宗に改宗。その後、能登国の總持寺では通幻の師である峨山韶碩にも師事し、峨山の没後に再び永澤寺で通幻に学んだ[4]。永徳3年︵1383年︶に通幻の法嗣となり、通幻門下においては﹁通幻十哲﹂の一人に数えられたほか[5]、石屋真梁とともに﹁二神足﹂と呼ばれたという[1][3]。 能登国の妙高庵︵総持寺の塔頭五院のひとつ︶に入って総持寺の輪住を務めたほか、永澤寺や近江国の總寧寺[註 1]、越前国の龍泉寺など通幻が開いた寺の住持を務めた[6][7][8]。応永元年︵1394年︶、故郷の相模国に戻り南足柄の地に最乗寺を開山。法嗣として無極慧徹や[9]韶陽以遠などが知られる[3][10]。 当時、禅の修行者︵学者︶は最乗寺か福昌寺を訪れるのが常だったが了庵は晩年になってそうした応接に倦む様になり[11]、最乗寺から3里ほど離れた地に﹁露栢庵﹂と名付けた小庵を結んで、応永18年に75歳で示寂するまでそこで暮らした[6][12]。脚注 [編集]
(一)^ ab日本古代中世人名事典︵2006︶、pp.1049 - 1050
(二)^ 曹洞宗人名辞典︵1977︶、pp24 - 25
(三)^ abc国史大事典 第十四巻︵1993︶、P.617
(四)^ 新潮日本人名辞典︵1991︶、P.1858
(五)^ “通幻禅師について”. 曹洞宗太平山龍泉寺. 2022年4月4日閲覧。
(六)^ ab国書人名辞典 第四巻︵1998︶、P.748
(七)^ “概要”. 曹洞宗 大雄山最乗寺. 2022年4月3日閲覧。
(八)^ “龍泉寺の歴代住職(輪番世代と独住世代)”. 曹洞宗太平山龍泉寺 (2021年6月25日). 2022年4月3日閲覧。
(九)^ “開山無極慧徹禅師”. 臨済宗妙心寺派 補陀落山 大泉寺 (2016年5月13日). 2022年4月3日閲覧。
(十)^ “韶陽以遠”. コトバンク. 2022年4月3日閲覧。
(11)^ 増訂 日本仏家人名辞書︵1974︶、P..56
(12)^ 曹洞宗人名辞典︵1977︶、P..27
注釈[編集]
- ^ 千葉県市川市にある總寧寺 (市川市)は米原市の寺が分かれたもの。『国書人名辞典』では「了庵が下総總寧寺の住持を務めた」旨の記述があるが、總寧寺が近江を退転したのは享禄3年(1530年)で了庵の没後100年以上後になる。
参考文献[編集]
- 鷲尾順敬編、『増訂 日本仏家人名辞書』、東京美術、1974年10月1日(増訂新装第四版)
- 『曹洞宗人名辞典』、国書刊行会、1977年12月10日、ISBN 978-4-3360-0347-8
- 新潮社辞典編集部編、『新潮日本人名辞典』、新潮社、1991年3月4日、 ISBN 4-10-730210-5
- 国史大辞典編集委員会編、『国史大辞典 第十四巻』、吉川弘文館、1993年4月1日、ISBN 4-642-00514-5
- 『国書人名辞典 第四巻』、岩波書店、1998年11月25日、ISBN 4-00-080084-1
- 平野邦雄・瀬野精一郎編.『日本古代中世人名辞典』、吉川弘文館、2006年11月20日、ISBN 978-4-6420-1434-2