于芷山
于芷山 | |
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『満洲建国十年史』(1942年) | |
プロフィール | |
出生: | 1882年(清光緒8年)[1] |
死去: |
1951年5月 中国遼寧省撫順市 |
出身地: | 清盛京将軍管轄区錦州府広寧県台安 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 于芷山 |
簡体字: | 于芷山 |
拼音: | Yú Zhǐshān |
ラテン字: | Yü Chih-shan |
和名表記: | う しざん |
発音転記: | ユー・ジーシャン |
于 芷山︵う しざん︶は、中華民国・満州国の軍人。当初は北京政府奉天派の軍人で、後に満州国で要職を務めた。名は世文だが、号の芷山で知られる。字は瀾波。
事績[編集]
若年時代は緑林の一味として活動していた。1903年︵光緒29年︶に清朝に投降して、以後清朝の軍人として経歴を重ねる。1914年︵民国3年︶4月、東三省講武堂に入学した。1920年︵民国9年︶2月、歩兵上校団長に任ぜられている[2]。 1922年︵民国11年︶、東三省陸軍第5混成旅旅長となった。1924年︵民国13年︶、東北独立騎兵第8旅旅長となり、張作霖の衛隊司令をつとめた。1925年︵民国14年︶、郭松齢討伐の軍功により師長に昇進している。1927年︵民国16年︶6月、張の侍従武官長となり、陸軍中将位を授与された[3]。10月、于芷山は第5方面軍第30軍軍長として山西省北部の閻錫山を攻撃し、勝利した[2][4]。 翌1928年︵民国17年︶になると中国国民党の北伐軍が優勢となる。同年6月、張作霖は逃走中に関東軍に爆殺された︵張作霖爆殺事件︶。そのため于芷山は、奉天派の旧拠点に退却した。その後、于芷山は張学良の下で東北東辺鎮守使、東北辺防軍司令長官公署軍事参議官となり、奉天省東北道の20県余りを統括している[2][4]。 満州事変後の1931年︵民国20年︶10月15日、于芷山は﹁東辺︵道︶保安司令﹂を自称、中華民国からの独立を宣言した[5]。満州国成立後の翌1932年︵大同元年︶3月14日、奉天省警備司令官に任命された[6]。1934年︵康徳元年︶7月、満州帝国第1軍管区司令官に任ぜられ、翌1935年︵康徳2年︶には陸軍上将に昇進した[4]。同年5月21日、軍政部大臣に任ぜられ[7]、1937年︵康徳4年︶7月1日、軍政部改組に伴い治安部大臣となった[8]。1939年︵康徳6年︶4月24日、治安部大臣を退任して参議府参議に転じる[9]。1942年︵康徳9年︶9月28日に参議を辞任し[10]、翌29日に張海鵬・于琛澂と共に軍事諮議官に任命された[11]。 満州国崩壊後は北平に隠れ住んでいたが、1949年10月の中華人民共和国成立後に逮捕された。1951年5月、撫順戦犯管理所内で病没[4][12]。享年70。脚注[編集]
(一)^ 徐主編︵2007︶、28頁による。王ほか主編︵1996︶、23頁は﹁1879年﹂としている。
(二)^ abc王ほか主編︵1996︶、23頁。
(三)^ 陸軍中将位については任命日が6月6日と記録されている。﹃政府公報﹄第3996号、1927年︵民国16年︶6月7日。
(四)^ abcd徐主編︵2007︶、28頁。
(五)^ ﹁残存実力派の雄 于氏独立を宣言﹂﹃東京朝日新聞﹄昭和6年︵1931年︶10月17日。
(六)^ ﹁東省特別区長官に張景恵氏﹂﹃東京朝日新聞﹄昭和7年︵1932年︶3月15日。
(七)^ ﹁鄭総理辞表を捧呈 張景恵氏に大命降下﹂﹃東京朝日新聞﹄昭和15年︵1935年︶5月22日夕刊。
(八)^ ﹁満州の人事異動 行革に伴い七月発令﹂﹃東京朝日新聞﹄昭和12年︵1937年︶6月12日、1面。
(九)^ ﹁満州治安部大臣更迭﹂﹃読売新聞﹄昭和14年︵1939年︶4月25日。
(十)^ ﹁共栄圏の重責完遂へ 満州国大臣全面更迭﹂﹃朝日新聞﹄昭和17年︵1942年︶9月29日夕刊、1面
(11)^ ﹁駐日満洲国大使 王允卿氏任命さる﹂﹃朝日新聞﹄昭和17年︵1942年︶9月30日夕刊、1面。
(12)^ 王ほか主編︵1996︶、24頁。
参考文献[編集]
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
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