井田主馬ヶ城
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別名 | 主馬ヶ城、主馬之城 |
城郭構造 | 山城 |
天守構造 | なし |
築城主 | 斎藤氏 |
築城年 | 1552年(天文21年)以前 |
主な改修者 | 不明 |
主な城主 | 斎藤主馬?、主馬判官?、斎藤左源太? |
廃城年 | 1583年(天正11年)以前 |
遺構 | 曲輪、土塁、堀切、虎口、櫓台 |
指定文化財 | 富山市指定史跡 |
再建造物 | なし |
位置 | 北緯36度35分12.1秒 東経137度09分04.7秒 / 北緯36.586694度 東経137.151306度座標: 北緯36度35分12.1秒 東経137度09分04.7秒 / 北緯36.586694度 東経137.151306度 |
地図 |
井田主馬ヶ城︵いだしゅめがじょう︶は、富山県富山市八尾町井田にあった戦国時代の日本の城︵山城︶。富山市指定史跡[1]。とやま城郭カードNo.23[2][3]。﹁とやま文化財百選﹂の1つにも選ばれている[4]。
概要[編集]
富山市の八尾市街地の東方、井田川右岸に張り出した標高175メートルの井田前山の山頂に位置する。城の縄張りは南北に細長い稜線上にあり、南北200メートル×東西100メートルを測るが、曲輪などの遺構は自然の痩せ尾根地形をそのまま利用しており、最高所の本曲輪は幅5メートル×長さ15メートル程度の規模である。本曲輪南側の尾根筋などにも曲輪が設けられ、それらから一段下がった周囲には空堀と帯曲輪を展開している。他に土塁等も残る[5]。 城主については、1798年 - 1819年︵寛政10年 - 文政2年︶編纂の富田景周による地誌﹃越登賀三州志﹄に﹁斎藤主馬﹂あるいは﹁主馬判官﹂、﹁斎藤左源太﹂とする伝えが紹介されている[5]。井田主馬ヶ城の北麓には、後に城生城主となる越中・斎藤氏が天文年間︵1532年 - 1555年︶に居住していた井田館があることから、当城は井田館の詰城と考えられている[4][6]。 築城・廃城年は共に不明だが﹃日本城郭大系﹄は山城としての形態が古いことから戦国時代以前ではないかとし[5]、富山県および富山市の教育委員会は1552年︵天文21年︶以前に築城され、斎藤信利が佐々成政・神保氏張により城生城を追われる1583年︵天正11年︶以前に廃城となっていたと考察している[注釈 1]。 1970年代から1980年代にかけて、同地に﹃八尾遊園地﹄という遊園地が立地していた時期がある[7]。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 現地解説板より。
出典[編集]
- ^ 「文化財一覧」富山市公式HP
- ^ 「とやま城郭カードが完成しました!」砺波市公式HP
- ^ 「とやま城郭カード一覧」砺波市公式HP
- ^ a b 「No.5-046 井田主馬ヶ城(主馬之城) - とやまの城」富山県映像センター公式HP
- ^ a b c 平井ほか 1980 p.316
- ^ 平井ほか 1980 p.315-316
- ^ 『北日本新聞』1979年4月10日付朝刊10面全面広告、1985年4月21日付朝刊10面全面広告より。