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京極伊知子︵きょうごく いちこ、慶長13年︵1608年︶ごろ - 万治3年4月27日︵1660年6月4日︶︶は、江戸時代初期の女性。若狭国小浜藩主・京極忠高の庶子。播磨国龍野藩主・京極高和の養嗣子であった京極高房の母。夫は京極家老の多賀常良。手記﹃涙草﹄の著者として知られる。
京極忠高の庶子として産まれる。生年は不明だが、﹃涙草﹄の記述によれば夫の常良とほぼ同年と見られ、慶長13年︵1608︶ごろと推測されている。[1]祖父高次が死去し、父忠高が若狭小浜9万2,000石を相続したころである。母とは早くに別れ、﹃涙草﹄には﹁おやなどいふ人のあたりもしらず﹂と記している。
寛永8年︵1631︶に多賀常良に嫁ぐ。父忠高が寛永14年︵1637︶に嗣子なく死去し、末期養子で忠高の甥の高和が播磨国龍野藩へ移封になると、伊知子も夫とともに龍野へ移る。
寛永20年︵1643︶に男子を出産し、幼名を頼母の助と称する︵のちの高房︶。ようやく迎えた子であったが、翌年7月、夫常良が病没する。
高房が6歳となる慶安元年︵1649︶、高房は未だ世継ぎの無かった高和の嗣子として選ばれ、同年のうちに江戸へと出立する。伊知子が龍野の峠から江戸に向かう行列を見送る様が﹃涙草﹄に記されている。
慶安3年︵1651︶に﹃涙草﹄を執筆。
明暦元年︵1655︶、高和に実子高豊が誕生。高房は嗣子ではなくなり、のちに高豊が家督を継いだ際に3,000石を分知される。万治元年︵1658︶、高和が讃岐国丸亀藩に転封となると、伊知子も丸亀へと移る。
万治3年︵1660︶4月27日に丸亀において死去。法名は壽昌院殿茂林宗繋大姉。
﹃涙草﹄[編集]
慶安3年︵1651年︶に京極伊知子によって記された手記。日記文学のような形式で、夫との死別の悲嘆、我が子を慈しむ日々、そして子が主家の後継として選ばれ自分の元を去ることへの切実な心情を、45首の和歌とともに洗練された筆致でしたためている。
﹁それ人のおやのこを悲しむ道は、思ふにもあまり、いふにも詞たらざるべし。﹂と始まり、幼くして父を失い、母の元を離れていく我が子を思い、高房への形見として、別れて以来涙に暮れる自分の心中を記したと結ばれる。
地の文が武家の秩序に根ざし、主家や家長を立てることに重きを置いているのに対し、歌は夫と子への自己の感情や意志を中心にまとめ上げている。表現からは万葉集や古今集・新古今集、源氏物語などの影響を見ることができ、伊知子が古歌や物語に深く親しんだことがうかがえる。
原本は現存せず、丸亀藩士の家に流布した写本によって伝えられた。