京都守護
京都守護︵きょうとしゅご︶は、鎌倉幕府の役職の一つ。
最初は上洛時に、北条時政が任命され京都の御家人を統率、洛中の警護・裁判を行い、朝廷と幕府の間の連絡の任に当たっていたが、承久の乱後に六波羅探題が設置されたことで消滅した。
歴代一覧[編集]
(一)北条時政‥文治元年︵1185年︶11月 - 文治2年︵1186年︶3月 (二)一条能保‥文治2年︵1186年︶3月 - 建久8年︵1197年︶10月 (三)一条高能‥建久8年︵1197年︶10月 - 建久9年︵1198年︶9月 (四)平賀朝雅‥建仁3年︵1203年︶10月 - 元久2年︵1205年︶閏7月︵牧氏事件で北条義時の命令で誅殺される︶ (五)中原季時‥元久2年︵1205年︶10月 - 建保7年︵1219年︶正月 (六)伊賀光季‥建保7年︵1219年︶2月 - 承久3年︵1221年︶5月︵承久の乱で後鳥羽上皇軍に敗れて討死︶ (七)大江親広‥建保7年︵1219年︶2月 - 承久3年︵1221年︶5月︵承久の乱で後鳥羽上皇に味方したため、戦後に身を隠して隠棲︶ なお、一条高能と平賀朝雅の間の時期について、近年発見された歴代の京都守護・六波羅探題の名前を記した﹃六波羅守護次第﹄には、︵一条高能︶ - 土肥実平 - 牧国親 - 五条有範 - 中原親能 - 里見義直 - ︵平賀朝雅︶と記されており、短期間に複数の京都守護が任じられていた可能性がある[1][2]。脚注[編集]
- ^ 熊谷隆之「六波羅探題任命考 -『六波羅守護次第』の紹介とあわせて-」(『史林』86の6(2003年))
- ^ 須藤聡「鎌倉期里見一族の動向と平賀一族」 (初出:『群馬歴史民俗』31号(2010年)/所収: 田中大喜 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第三巻 上野新田氏』(戒光祥出版、2011年)ISBN 978-4-86403-034-2)