洛中
洛中︵らくちゅう︶とは、京都の市中を指す呼び名。日本の平安時代に文学上の雅称として平安京を中国の都に擬えて﹁洛陽﹂と呼んだことから派生した言葉で、概ね中世以降に用いられる。その示す地理的範囲は時代ごとに違いがある。また、公・官・民、それぞれの立場からも認識の違いがみられる。洛中に対して、洛中に続く外縁地域を洛外と呼んだ。
変遷[編集]
京都の市中を指す﹁洛中﹂の語の﹁洛﹂は平安京を擬えた中国の都市﹁洛陽﹂の一字を採ったもの[1]である。平安京そのものあるいはその京域内を指す語として、古くは﹁京中﹂﹁京内﹂などが用いられ、﹁洛中﹂の用例は﹃小右記﹄の治安3年︵1021年︶の記載が早い例として挙げられる[2]。11世紀末ごろからは﹁京洛﹂﹁洛中﹂などの語が用いられ[3]、時代が下るほど使用されるようになる。﹁京﹂と﹁洛﹂の語の区別については﹁京﹂が公的に﹁洛﹂が私的に、と使い分けをしていたが、長和年間以降混用され、11世紀中頃には﹁京﹂と﹁洛﹂を同義とする認識が定着したとの指摘がある[4]。 平安京において左京[5]が﹁洛陽﹂、右京が﹁長安﹂と呼ばれたが、右京が廃れたことから左京を表す﹁洛陽﹂が残り、市内を指す﹁洛中﹂の語になったというのが通説となっているが、異論も唱えられている。︵→#平安京の左京・右京と﹁洛陽﹂・﹁長安﹂︶中世[編集]
京都の市中を﹁洛中﹂︵あるいは﹁京中﹂[6]︶、その周辺を﹁辺土﹂と呼ぶ表現は鎌倉時代には既にみられる[7]。 その範囲について、鴨長明﹃方丈記﹄の養和元年︵1181年︶養和の飢饉に関する件には、﹁京ノウチ﹂を﹁一条ヨリハ南、九条ヨリハ北、京極ヨリハ西、朱雀ヨリハ東﹂と記し、続いて﹁辺地︵へんぢ=辺土︶﹂として白河や﹁河原﹂︵鴨川河川敷︶とともに﹁西ノ京︵西京、かつての右京地域︶﹂を挙げている。辺土のうち、鴨川の東を河東と呼称し、白河や六波羅などがこれに該当した[7]。 ﹃吉記﹄治承4年11月30日︵1180年12月18日︶条によれば、安徳天皇が平清盛の六波羅第に滞在中の高倉上皇の元に行幸しようとした際に、記主の吉田経房が辺土への行幸に神鏡を持ち出す事に異論を唱えている。 正応元年6月10日︵1288年7月9日︶の伏見天皇による殺生禁止の宣旨には、宣旨を適用する洛中の外側を﹁近境﹂と表現して、東は東山の下、南を赤江︵現在の伏見区羽束師古川町︶、西を桂川の東、北を賀茂の山と定めている[8]。 鎌倉時代は、朝廷も鎌倉幕府も洛中・京中と辺土の区別を重視した。京中︵洛中︶は検非違使の管轄であるが、辺土︵洛外︶は山城国の管轄と考えられており、洛中と辺土との境界地域では検非違使庁の役人の中でも﹁山城拒捍使﹂に任じられた者が警備した。鎌倉幕府が六波羅に六波羅探題を設置したのも、平家滅亡後に、京都における北条氏の邸宅が置かれていたこともあるが、検断権を巡る検非違使との直接的な衝突を避けたことも理由に挙げられる。後に河東は六波羅探題の異称にもなった。 洛中の周縁である﹁辺土﹂は、後には﹁洛外﹂︵らくがい︶[9]とする表現に収斂していく。 鎌倉時代末期の朝廷や室町幕府が酒屋役を﹁洛中辺土[10]﹂に課しており、応仁の乱の頃から﹁洛中辺土﹂に替わって﹁洛中洛外﹂という語が一般的になる[11]。 室町時代、寛正6年︵1465年︶の洛中地口銭課役において、大宮︵東大宮大路︶を﹁洛中﹂の西の境界とみなすなど[12]、室町幕府は﹁洛中﹂を東朱雀大路[13]以西・東大宮大路以東・ 九条以北・鞍馬口以南としていたと推定される[14]。 これより前、康正2年︵1456年︶の内裏造営のための棟別銭を幕府が課役したときには、﹁洛中﹂では﹁町別奉行﹂が棟数の検注を行う一方、﹁洛外﹂では領主への納入を命令しており、﹁洛中﹂と﹁洛外﹂では支配の方法が異なり、室町幕府が住民を直接支配していたのが﹁洛中﹂であったといえる[14]。 ﹁洛中﹂と﹁洛外﹂の境界として、嘉吉元年︵1441年︶に起こった嘉吉の土一揆の際に、幕府が諸国から京都へと至る道の出入口である﹁七道の口﹂︵のちの京の七口︶に制札を掲げたことから、この﹁七道の口﹂の所在地を手掛かりとして﹁洛中﹂の範囲を、大宮・東朱雀・九条・上御霊の範囲とする説[15]がある[14]。 なお、幕府にとっての﹁洛中﹂の範囲に対して、実態としての市中は七条までであり、それが戦国期にはさらにそれぞれの惣構に囲まれた﹁上京﹂と﹁下京﹂にまで縮小してしまったとされる[14]。 一方、これは幕府の支配と市街の実態からみたものであり、戦国時代の永正15年︵1518年︶の酒麹役という税をめぐる争いの中で﹁およそ一条以北はこれ洛外なり、京中との差異分別なきか﹂という平安京の一条大路が内外の境との認識のもとで主張を行う文書︵﹃壬生家文書﹄︶も残されている[14][16]。近世[編集]
安土桃山時代になり豊臣秀吉が政権をとると、上京と下京を分かっていたそれぞれの構えを撤去し代わって﹁洛中惣構﹂として御土居を構築した。御土居建造の目的は定かではないが、慶長年間の成立とされる﹃室町殿日記﹄には、天下統一後に秀吉が荒れ果てた京都を復興するため、洛中の範囲を聞き、洛中洛外の境を定めるために御土居の築造を命じたとの伝承[17]がある。 ﹃室町殿日記﹄の伝承の真偽[18]はともかく、﹁御土居﹂の築造により京都の内外を限る物理的な境界が明示され、﹁洛中﹂と﹁洛外﹂の境界となったという見方が一般的である[19]。京都の土木建築行政を担った中井役所が寛永年間︵1624年-1644年︶に作成した﹃洛中絵図﹄には御土居の内側と高瀬川周囲のみ描いている[20]。 一方、1634年︵寛永11年︶の江戸幕府将軍徳川家光の上洛を機に、京都の街の﹁町﹂に地子免除が認められた[21]が、これには洛外となる鴨川東岸も含まれた。また、同時期に行政当局が洛中と洛外の町数等を記した史料によれば、明らかに御土居の内側にあたる地域を洛外と位置付けるなど、﹁洛中﹂・﹁洛外﹂の取り扱いに変化がみられる[22]。寛文8年︵1669年[23]︶の京都町奉行の設置を機に、門跡寺院を除く寺社の管轄が町奉行となり、直後に始まった鴨川堤防︵寛文新堤︶の設置工事が完成︵1670年︶して洛中と洛外を区切る自然条件が大きく変化することによってそれまでの鴨川の西河原が市街化し、同時に﹁鴨東﹂と称される鴨川東岸にも市街が広がった。 この新たに広がった部分は﹁洛外町続﹂と呼ばれ、﹁洛中﹂と一体となった都市域︵洛中洛外町続[24]︶が形成された。一方、あくまで﹁洛外町続﹂として﹁洛中﹂と区分されたのは、町代が支配する地域を﹁洛中﹂、雑色が支配する地域を﹁洛外﹂とする幕府の支配構造による区分があったためとされる[25][26]。 町代・雑色いずれが所掌するかによって﹁洛中﹂﹁洛外﹂を区分すると、寛文新堤の設置後の寛文12年︵1672年︶に鴨川以西が町代による﹁洛中﹂で、東岸が雑色による﹁洛外﹂となった[27]。 また、北部︵鞍馬口通以北︶や西部︵概ね千本通以西︶などには御土居の内部であるにもかかわらず、雑色が管轄するため、﹁洛外﹂とされる区域が広がっていた。 地誌﹃京町鑑﹄︵宝暦12年・1762年上梓︶には﹁今洛中とは、東は縄手︵現大和大路︶、西は千本、北は鞍馬口、南は九条まで、其余鴨川西南は伏見堺迄を洛外と云﹂とある。 江戸時代に京都の街の入口には、﹁是より洛中荷馬口付の者乗べからず﹂[28]と記された標示︵﹁是より洛中﹂碑︶が設置されていた。﹃京都御役所向大概覚書﹄にはその30箇所の場所が示され、元禄8年︵1695年︶に小笠原長重︵京都所司代︶に松前嘉広︵京都町奉行︶が進言して建立し、木製のため後年石製にしたという経過が記されている。 その場所は、東側は鴨川東岸、北側は御土居の北辺よりも南側の町代・雑色の管轄区分による洛中・洛外の区分となる現在の鞍馬口通に沿って多く設置されているが、西側・南側は雑色が管轄する農村も含み、概ね御土居の出入口に置かれていた[29][30]。 ﹁是より洛中﹂碑は、現在も10数本が学校の敷地内などに移設のうえ残されている[31]。 都市域の拡大について、町奉行は抑制する方針を採ったが、実際には都市の拡大が先行して町奉行及び新しい町割の是非を審査する新地掛の与力がこれを追認する状況が幕末まで続いた。新しく開発された﹁新地﹂と呼ばれる土地は、地子免除の対象となってはいない[32]。この洛外にまで広がった上京と下京が近代以後の京都市の基礎となっていくことになる。 また、﹁洛中洛外﹂とその周辺の境について、幕府は明和4年︵1767年︶に、京都周辺の35か村の内側を行政上﹁洛中洛外﹂、外側を遠在農村とした。この経緯としては、綴喜郡・相楽郡・久世郡の建築許可について、農地の減少を監視するため享保18年︵1733年︶に京都町奉行所の管轄にしていたことがあり、この決定により京都代官所や地頭の管轄に戻された[33]。近代・現代[編集]
明治になり、京都の地域自治の単位である町・町組は2度の町組改正により現在の元学区につながる66の番組に編成された。概ねその区域をもとにして明治12年︵1879年︶に郡区町村編制法により上京区・下京区が置かれ、明治22年︵1889年︶にはその2区により京都市が成立した。これら明治期の﹁区﹂︵上京区・下京区︶及び﹁市﹂︵京都市︶の設置などにより﹁洛中﹂及び﹁洛外﹂の語は、行政上の区域としての役割を失うことになった。 その後、京都市内に路面電車網が張り巡らされると市民の間にはそれら市電の外郭線に取り囲まれた範囲、すなわち﹁北大路通、東大路通、九条通および西大路通の内側が洛中﹂という共通認識が生まれた[34]が、そうした認識も市電の廃止︵1978年︶以降、次第に薄れ、現在市民の間で京都の内外を示す﹁洛中﹂﹁洛外﹂が意識されることはほとんどない。 現在では、市民生活よりは、むしろ観光客に向けた大まかな地域区分として、﹁洛中﹂とその周縁を示した﹁洛東﹂﹁洛西﹂﹁洛北﹂﹁洛南﹂が用いられる[35]。その範囲には確定したものはないが、概ね上述の旧外郭線の範囲内[36]や、江戸時代以来の旧市街にあたる上京区・中京区・下京区を﹁洛中﹂[37]、その四方について、左京区の南域・東山区・山科区を﹁洛東﹂、右京区・西京区を﹁洛西﹂、南区・伏見区を﹁洛南﹂、北区・左京区北域を﹁洛北﹂に充てている[37]。平安京の左京・右京と﹁洛陽﹂・﹁長安﹂[編集]
平安初期に、後の京都の基礎となった平安京の左京[5]をかつての中国の都﹁洛陽﹂に擬え、対して、右京を同じく﹁長安﹂と呼んだとされる説に基づき、後に右京である﹁長安﹂が廃れたことから、左京である﹁洛陽﹂が市内︵実質的に平安京の左京域︶を指す﹁洛中﹂の語源となったという見方がある。 平安京において洛陽、長安を左京、右京に分けて使ったとする説は、江戸時代の地誌[38]にもみられ、嵯峨天皇により宮城の門の名が和風から唐風に変えられた弘仁9年︵818年︶と同時期であろうとの考察も加えられ[39]、現在さまざまな書籍に用いられている。 これに対し、平安時代の文献からの疑問もある[40]。 例えば平安初中期の詩文︵﹁本朝文粋﹂﹁和漢朗詠集﹂など︶に﹁洛陽﹂﹁長安城﹂あるいは﹁洛城﹂と現れるが、一つの詩文の中に﹁洛陽﹂と﹁長安﹂が併記される例は見当たらないため、それらがそれぞれ左京と右京を指したとは言えず、﹁城﹂をつけて呼んだところを見れば、共に﹁平安城﹂に代わる文学上の雅称として︵つまり共に平安京全体を指す言葉として︶使われたとするほうが自然である。 また﹁小右記﹂長和4年︵1016年︶6月25日条では西京︵右京︶を﹁西洛﹂とも呼んでおり、やはりここでも右京を含めた平安京全体を指して洛陽と呼んだことがうかがえる。平安末期の辞典﹃色葉字類抄﹄では﹁洛 ラク 又作雒 京也﹂と﹁洛とは京﹂と明確に定義付ける[41]。 ﹁左京洛陽・右京長安﹂説は、今のところ平安遷都から500年余経た鎌倉時代末期頃に洞院公賢によって書かれた﹃拾芥抄﹄の﹁京都坊名﹂の項に﹁東京号洛陽城、西京号長安城﹂と付記されているのが、最も古く[42]、﹁左京を洛陽、右京を長安﹂と称した事実は平安期の文献では確認できない[43][44]。 また、史書に限らず行政文書で京都を﹁洛陽﹂﹁長安﹂と示す表現は見えず[45]、﹁銅駝坊﹂﹁教業坊﹂﹁陶化坊﹂など洛陽と長安の坊名を借りて名付けられたと考察される[46]平安京の坊名も、必ずしも﹁左京は洛陽﹂﹁右京は長安﹂を示していない[47]。 以上、定説とされる﹁平安初期に︵施政者により︶右京は長安、左京は洛陽と名付けられた﹂に対し、平安時代の文献等に基づけば、平安時代には﹁洛陽﹂︵および﹁長安﹂︶とは実質的にはどうあれ都全域を指す呼称である[48]との疑義が示され、この説によれば、後に用いられていくようになる﹁洛中﹂の語が示す範囲が実質的に平安京の左京域となるのは、単に右京が廃れて都市域が東に片寄ったために過ぎないといえる[49]。脚注[編集]
(一)^ すでに中国の詩文では﹁洛中﹂﹁洛下﹂や﹁洛城﹂など、洛の一字を以って洛陽を示す例があった。
(二)^ 治安3年︵1021年︶12月23日条に、京内に凶党が跋扈することを述べて﹁洛中坂東に異ならず﹂と記される。︵五島 (1994)︶
(三)^ ﹃国史大辞典﹄第14巻 (1993), p. 496.
(四)^ 佐々木, 日嘉里﹁平安京における都市空間認識 : 古記録における﹁京﹂と﹁洛﹂(2002年度大会 (北陸) 学術講演梗概集)﹂﹃学術講演梗概集. 計画系﹄第2号、日本建築学会、2002年、421-422頁、ISSN 13414542、CRID 1571980076902445312。 (要購読契約)
(五)^ abここでいう﹁左京﹂とは、現在の﹁左京区﹂の区域ではなく、平安京の中心である朱雀大路︵現在の千本通︶の東側、東京極大路︵現在の寺町通︶までの範囲を指す。同じく﹁右京﹂も朱雀大路の西側から西京極大路までの区域を指した。平安初期には、左京・右京をそれぞれ﹁東京﹂・﹁西京﹂と呼んだ。
(六)^ 鎌倉初期に成立したと見られる平家物語では圧倒的に﹁京中﹂が使われ﹁洛中﹂の語はほとんど見られない。対して﹁入京﹂﹁帰京﹂は全く見られず﹁入洛﹂﹁帰洛﹂がごく普通に使われている。
(七)^ ab高橋慎一朗 (1996), p. 108.
(八)^ 黒田 (1987).
(九)^ ﹁洛外﹂の語も早い例では平安時代にみられ、﹃本朝続文粋﹄八に収められる藤原実範の詩に、名月を見るのに﹁洛外の地を択ぶ﹂とある。︵五島 (1994)︶
(十)^ 黒田 (1987)によれば、﹁洛中﹂と﹁辺土﹂を一括として﹁洛中辺土﹂とする表現は室町幕府により14世紀になって設定されたとする。
(11)^ 応仁の乱後に諸課役による用語は、﹁洛中洛外﹂に統一される。︵瀬田勝哉﹃洛中洛外の群像ー失われた中世京都へー﹄﹁荘園解体期の京の流通﹂平凡社︵1994年、初出は1993年︶170ページ︶
(12)^ 桃崎有一郎﹃平安京はいらなかった﹄吉川弘文館、2016年、134頁。ISBN 978-4642058384。
(13)^ 東京極大路︵現在の寺町通︶の鴨川側に拓かれた南北の大路
(14)^ abcde高橋康夫 (1998).
(15)^ ﹃京都の歴史﹄第3巻 pp.27-29
(16)^ 河内将芳﹃戦国京都の大路小路﹄戎光祥出版、2017年。ISBN 978-4-86403-258-2。
(17)^ ﹁秀吉公京都開基御尋之事﹂の記事。秀吉の﹁洛中とは﹂という下問に対し細川幽斎が﹁東は京極迄、西は朱雀迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。されば内裏は代々少しづつ替ると申せども、さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし。油小路より東を左近、西を右近と申、右京は長安、左京は洛陽と号之。︵中略︶この京いつとなく衰え申、︵中略︶ややもすれば修羅の巷となるにつけて、一切の売人都鄙の到来無きによりて自ずから零落すと聞え申候﹂と答えたとある。この幽斎の返答を聞いた秀吉は﹁さあらば先ず洛中洛外を定むべし﹂と諸大名に命じ惣土堤︵御土居︶を築かせたという。幽斎が﹁九重の都﹂の範囲を﹁東は京極迄、西は朱雀迄﹂と誤まりつつも、左京と右京と含めて﹁さだめおかるる洛中洛外の境は聊かも違うことなし。﹂と述べていることは、当時の一部知識人の間では﹁平安京の京域内が洛中﹂という認識がなお存在していたことを示している。
(18)^ ﹃室町殿日記﹄は史実と虚構の入り混じった、いわゆる軍記であるが、近世においては実記と捉えられることが多く、当時の京都の地誌における御土居の紹介︵﹃拾遺都名所図会﹄や﹃山城名勝志﹄の﹁洛外惣土堤﹂の項︶にも用いられている。
(19)^ 京都市情報館︵京都市公式webサイト︶に掲載される御土居の解説︵史跡 御土居︶でも﹁土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,﹂と紹介する。
(20)^ ﹃洛中絵図﹄は、江戸幕府大工頭中井家︵中井役所︶で作成した京都の実測地図。中井家では寛永14年︵1637年︶に最初の京都の実測地図︵宮内庁書陵部蔵﹁洛中絵図﹂︶を作成しており、その少し後の実測図が京都大学附属図書館に所蔵されている︵伊東宗裕﹃京都古地図めぐり﹄京都創文社、2011年。ISBN 978-4-906679-09-6。︶。京都大学附属図書館蔵の﹁洛中絵図﹂は、上杉和央、岩崎奈緒子﹃京都古地図案内﹄︵京都大学総合博物館︶によれば、中井家が幕府に提出した清書絵図の写しとされ、寛永19年︵1642年︶の姿とされる。京都大学附属図書館蔵の﹁洛中絵図﹂は京都大学貴重資料アーカイブ寛永後萬治前洛中絵図で閲覧可能。なお、この﹁寛永後萬治前洛中絵図﹂では、高瀬川沿いの御土居外側の街区についても記載している。
(21)^ 徳川政権はこれに先立つ元和3年︵1617年︶に下京の地子免除地を広げている。︵丸山俊明﹃京のまちなみ史―平安京への道 京都のあゆみ﹄昭和堂、2018年。ISBN 9784812217153。pp.141︶
(22)^ 朝尾 (1996).
(23)^ 寛文8年は1668年であるが、設置日を新暦換算すると、翌1669年に入る
(24)^ ﹁洛中洛外町続﹂の呼称について、朝尾 (1996)では、元禄期の成立とする。
(25)^ 丸山 (2018), p. 142
(26)^ 丸山俊明; 日向進﹁山城国南部における建築規制の転換について : 江戸時代の山城国農村部における建築規制(その1)﹂﹃日本建築学会計画系論文集﹄第65巻、第535号、日本建築学会、223-230頁、2000年。doi:10.3130/aija.65.223_2。
(27)^ 町代であった古久保家文書 ﹃起源﹄寛文12︵1672︶年6月27日の条に,﹁加茂川筋を境、東之方ハ雑色、西之方ハ町代可為支配旨被仰出﹂とみえる。日向進﹁近世京都における新地開発と﹁地面支配人﹂ : 鴨東,河原の開発をめぐって﹂﹃日本建築学会計画系論文報告集﹄第407巻、日本建築学会、129-137頁、1990年。doi:10.3130/aijax.407.0_129。
(28)^ ﹁ここからは﹃洛中﹄であることから、荷馬の口取りが馬に乗ったまま入ることを禁じる﹂という内容である。伊東 (1997)によれば、この碑の目的については、社寺の門前に設けられる﹁下馬﹂碑のように儀礼上下馬を命じるものではなく、交通安全を目的としたものであると考察される。
(29)^ 中村 (2008)では、寛政6年︵1794年︶製とされる﹃御土居麁絵図﹄をもとにして﹁是より洛中﹂碑の場所を図示しており、東部の鴨川東側は木製であることを示しており、その位置は同氏のtwitterの投稿でも紹介されている。
(30)^ 伊東 (1997)では、明治2年︵1869年︶刊の﹃上下京両組一覧之図﹄には、この碑の場所が26ヶ所図示されており、明治初年には残っていたことを紹介する。
(31)^ ﹃京のいしぶみデータベース﹄︵KA105-1 是より洛中碑など︶
(32)^ 丸山 (2018), p. 142,143
(33)^ 丸山 (2018), p. 188-190.
(34)^ 例えば、京都新聞社﹃京都市電物語﹄︵1978年︶pp,56には、﹁京都人の洛中洛外意識と関連深い外郭線﹂という記述が見られる。
(35)^ 洛外を方位により﹁洛東﹂﹁洛西﹂﹁洛北﹂﹁洛南﹂と分ける記載は、すでに江戸期にみられるが、範囲は定まっていない。森谷 (2003)
(36)^ 例えば、旅行会社のサイトの﹁京都駅・河原町エリア︵洛中︶﹂のページでは、﹁洛中﹂は﹁京都御所を中心に、北は北大路、南は九条まで広がるエリア﹂などと紹介されている。
(37)^ ab森谷尅久﹃地名で読む京の町︿上﹀洛中・洛西・洛外編﹄PHP研究所、2003年、1-7頁。ISBN 978-4-569-62679-6。同書では、現在言われている概念を踏まえた、これまでに使用されてきた地域分けを踏襲するものとしている。
(38)^ 黒川道祐﹃雍州府志﹄など
(39)^ 村井 (1979) pp.40。
(40)^ 五島 (1994)では、まず冒頭に﹁﹃洛﹄は﹃洛陽﹄即ち京都の意味で、﹃洛中﹄は漠然とした京内をいう言葉﹂と定義づけ、﹁平安京そのものを長安とも洛陽とも呼んでいる﹂とする。加藤 (2016)では詳細にこの問題を追及している。
(41)^ 享徳3年︵1454︶の奥書を持つ﹃撮攘集﹄にも都の異名を並べて﹁京城 都 皇州 京帥 洛陽 長安 禁城 帝畿﹂と洛陽・長安ともに都の意と記す。
(42)^ 洞院公賢はその出典を明らかにしていないが、﹁洛陽城﹂﹁長安城﹂としているところをみると、本朝文粋などに現れた﹁洛城﹂﹁長安城﹂にヒントを得た可能性も考えられる。また中国では、洛陽を東京、長安を西京と呼んだから︵﹁洛陽称東京、長安称西京﹂︶、これをそのまま平安京の﹁東京︵左京︶﹂﹁西京︵右京︶﹂に当てはめた可能性もある。
(43)^ しばしば慶滋保胤が﹃池亭記﹄において左京を指して﹁洛陽城﹂と書いたとされるが、対して長安の名は文中に見えず、洛陽城をもって京域全体を指していたとも解せられる。
(44)^ 都を指して﹁洛陽﹂という言い方は早くから定着していたが、のちに右京が廃れたことにより都の範囲が狭まり、実質的に﹁京都︵洛陽︶=左京﹂という状態になっていたから、対して詩文に現れた﹁長安﹂を右京に付会して、﹁拾芥抄﹂の﹁左京洛陽・右京長安﹂説が成立したとも考えられる。
(45)^ 加藤 (2016)は左京を洛陽、右京を長安と名付けたという記述は日本紀略・続日本後記になく、正史などで京都を﹁洛陽﹂﹁長安﹂と呼ぶ例は皆無であるとする。
(46)^ これら坊名は嵯峨天皇により宮城の門の名が和風から唐風に変えられた弘仁9年︵818年︶に、同時に命名されたと考えられているが︵村井康彦ら説︶、そのことは史書などに現れない。
(47)^ 例えば、左京の﹁崇仁坊﹂﹁永昌坊﹂などは長安城から、右京の﹁豊財坊﹂﹁毓財坊﹂は洛陽城から採用している。
(48)^ 洛陽・長安の区別は少し後、すでに﹁洛中﹂や﹁入洛﹂などの語が成立していた鎌倉時代以降のことと考えられる。
(49)^ 長安という呼び名が廃れたのは、﹁長﹂も﹁安﹂も日本では多用される文字であったため﹁洛﹂のように一字で洛陽すなわち京都を意味することができなかったためと考えられる︵たとえば﹁上洛﹂はすぐ理解できるが、﹁上長﹂﹁上安﹂では言語としての明晰性に欠ける︶。中国でも事情は同様であったと見え、洛の一字を以って洛陽を示すことはあったが、長あるいは安の一字を以って長安を示す例は見当たらない。﹁長城﹂という語は見られるがこれは﹁長安城﹂の略ではなく﹁万里の長城﹂のことであった。