伝統
(伝統の発明から転送)
伝統︵でんとう︶は、信仰、風習、制度、思想、学問、芸術などの様々な分野において、古くからの仕来り・様式・傾向、血筋、などの有形無形の系統を受け伝えることをいう。
伝統とは[編集]
伝統とは、古くからの仕来り・様式・傾向、血筋などの有形あるいは無形の系統を受け伝えること[1]、民族や社会・団体が長い歴史を通じて培い伝えて来た、信仰、風習、制度、思想、学問、芸術、あるいはそれらの中心をなす精神的あり方[2]などのことをいう。 様々な分野において、様々な由来の様々な伝統が存在する。 ●文化 ●民族服 ●伝統工芸 ●日本伝統芸能 ︵神楽・曲舞など︶ ●伝統音楽 ︵箏曲・能楽など︶ ●伝統遊戯 ︵鬼ごっこ・缶蹴り・折り紙・かるた・おはじきなど︶ ●武術 ︵剣道など︶ ●スポーツ ●国技 ●伝統派空手 ●伝統の一戦 ●宗教 ●伝統宗教 ︵カトリック・プロテスタント・正教会など︶ ●科学・技術・学術 ●伝統的論理学 ●伝統医学 ●伝統文法 ●政治 ●伝統保守主義創られた伝統[編集]
本来は﹁伝統﹂ではないものが﹁伝統﹂として広まることもあり、これらは﹁創られた伝統﹂、﹁伝統の発明﹂、﹁伝統の捏造﹂等と呼ばれる[3][4][5][6]。エリック・ホブズボームとテレンス・レンジャーの1983年の編著﹃創られた伝統﹄により、この概念は広く知られるようになった。 ロジャー・キージングなど一部の文化人類学者は、社会的・政治的要請によって創出される伝統的事象は、民族集団や階層に正当性を与えるためのものであり、近代的なナショナリズムと密接に関連していると指摘し、真に伝統的なものとそうでないものを区別しようとした[7]。 政治的要請によって創出された伝統的事象を真正ではないものとする議論は文化人類学のみならず、先住民の権利回復運動の活動家たちの反響を呼んだ[7]。たとえば、ハワイ先住民運動のハウナニ=ケイ・トラスクは、創られた伝統論を権利回復運動の力を削ぎ落とそうとするものであると批判し、キージングをはじめとした文化人類学者たちをアメリカ政府同様にハワイの主権を奪い取っている植民地主義者と断じた[7]。「en:Invented_tradition」および「フェイクロア」も参照
伝統とするのが問題とされる例としては、以下のような指摘が挙げられることがある。
日本における例[編集]
夫婦別姓問題[編集]
「夫婦別姓」も参照
夫婦同姓は日本の﹁伝統﹂とはいえないという考えがある[3][5]。夫婦同姓が規定されたのは、1875年(明治8年)に平民苗字必称義務令による国民皆姓制度ができてよりもかなり後、明治後半の1898年︵明治31年︶である。それ以前は夫婦別姓が1876年︵明治9年︶に通達されていた[8]。さらにそれ以前は夫婦同姓・別姓にとどまらない様々な氏名制度があったとの研究がある[9]。
日本文化[編集]
●﹁武士道﹂は江戸時代からの武士の﹁伝統﹂ではない[5][10]。﹁武士道﹂という言葉が書かれた最も古い書物は江戸時代初期に成立した﹃甲陽軍鑑﹄であるが、ここでの武士道は、武名を高めることにより自己および一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いているなど、倫理観を表すものではない。 ●﹁演歌﹂は日本の﹁伝統﹂的な歌謡ではない[11]。ベースは西洋音楽であり、戦後の進歩的知識人のレコード歌謡批判に対抗して昭和40年代以降に新左翼ナショナリズムから称揚された。慣習[編集]
●﹁いただきます﹂は伝統的な食前の挨拶ではなく、習慣化したのは昭和時代以降とみられる[12]。神社・神道関連の民習[編集]
●正月元日に遠方の寺社で初詣を行うのは明治中期の鉄道網の発達に伴って成立した新しい行事であるという指摘がある[13]。なお、江戸時代においては氏神神社に参詣したり、居住地から見て恵方にあたる寺社に参詣︵恵方詣り︶したりといったことは行われていた[14]。 ●日本の元号は元々中国の前漢の第7代武帝によって創始された制度を取り入れたものであり、中国が元号を廃止し﹁公元﹂という名称で西暦が採用されている現状においてはあくまでも中国の制度が日本の天皇の下で残存しているという状態であり、日本固有の伝統とはいうわけではない[15]。また中国や日本以外でも、中国王朝の影響下にあったかつての朝鮮、南詔、満洲、ベトナムなどでも元号が使われていた。 ●大相撲では神道との関わりを理由に土俵は女人禁制とされているが、古くからの伝統ではない。室町時代や江戸時代にも女相撲の記録は残っており、明治末期に近代化や家制度の創設に伴って女性が相撲から排除されていった[16]。国民性[編集]
ゴミが少ないのは昔からの日本の﹁伝統﹂ではない[3]。現在の日本においてゴミが少ないのは、第二次世界大戦後のさまざまな取り組みによるもので﹁伝統﹂ではない、という指摘がある[3]。 日本人が温厚というイメージも現代になってからであり、近世までは些細なことから喧嘩に発展することがあるため、非武士階層であっても喧嘩や護身のために帯刀することから、携帯性の優れた打刀の主な用途は日常の護身用という見解がある[17][18]。また昭和前期にも日本人は短気というイメージがあったことが指摘されている[19]。家族観[編集]
「家制度」および「家族制度#日本の家族制度」も参照
●戦後日本は﹁伝統的家族﹂が壊れ、家族の絆が弱まって家庭の教育力が低下した、といった意見が見られることがあるが、実際には、日本で教育のノウハウ等が登場したのは1910年頃で、富裕層や役人・知識人ら新中間層が家庭教育に注力し始めたものの、一般庶民には普及しておらず、子供は﹁放任﹂が一般的だった[6][20]。
●﹁家族の絆が弱まった﹂﹁家族が崩壊しつつある﹂と言われることがあるが、実際には、1958年の政府の調査では﹁一番大切なもの﹂として﹁家族﹂を挙げていたのはわずか12%である一方、2013年の調査では44%にまで上昇している[6]。
●﹁3世代の大家族は昔は日本のどこでも見られた﹂と言われることがあるが、1920年の調査で核家族が全世帯の54%にのぼり、3世代以上の同居家族は31%にすぎなかった。地方によってはむしろ複数夫婦の同居はタブーだった[要検証][6]。
●﹁専業主婦は日本の伝統﹂と言われることもあるが、1970年ごろまで日本女性の就労率は欧米諸国よりも高く、専業主婦が一般化するのは高度成長期。1898年の明治民法の施行や近代化の過程で多様性が消され、儒教的で権威的な、中国のような家族像と西洋的な性別分業が強調された[6]。
古典作品評価[編集]
万葉集は、伝統的に評価が高かったわけではなく、明治期に、庶民から天皇までの歌が収められているために、﹁日本﹂という統一国家観の形成のために価値が創りだされた、と品田悦一は指摘している[21]。