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●父・佐久間甚右衛門 ‐ 幕府賄方。武蔵国葛飾郡当代島村︵現・浦安市︶の名主出身、江戸に出て賄方の家格を買って士分となった。貞一が生まれてまもなく死去。[2]
●妻・てつ︵1855-︶‐士族・保田金三郎の長女、保田久成︵1836-1904︶の妹。久成は学問所教授、奥儒者、目付を務めた幕臣で、秀英舎発起人の一人。久成の三男・鋼三郎は貞一の養子となる。[5][6]
●長男・佐久間長吉郎︵1893-1984︶ ‐ 資産家、大日本印刷社長、大日本図書社長。岳父に神保小虎、妻の叔父に神保格。東京帝国大学法科大学経済科卒業後久原鉱業入社、1921年秀英舎支配人、小田原電気鉄道支配人、大東京鉄道社員などを経て、1931年秀英舎常務取締役、1935年大日本印刷同役、1943年同社取締役社長、1955年同社会長、その他、山梨パルプ、神崎製紙、中央社、中央通運などの役員を務めた[7]。[8]
●長吉郎長男・佐久間正一︵1919-︶ ‐ 銀一商事︵王子製紙関連会社︶社長。九州大学卒業後、銀行員を経て紀伊国屋書店常務取締役、大橋達雄死去にともない銀一社長就任。[9]
●長吉郎二男・佐久間鉄次(1921-1945) ‐ 陸軍中尉。南京戦にて戦死。[10]
●長吉郎三男・佐久間裕三︵1923-2004︶ ‐ 大日本図書社長。東京大学医学部中退、学習院大学法学部卒。[10]
●養子・佐久間鋼三郞 (1872-) ‐ 保田久成の三男。東洋移民会社︵元・日本吉佐移民会社︶社長・東京板紙役員・秀英舎役員。岳父に和田維四郎。[6]
●鋼三郎長男・貞男 (1905-) ‐ 資産家。東京帝国大学経済学部卒。[11][12]
●鋼三郎娘・久子︵1907-︶ ‐ 松方正雄の長男・義雄︵大同生命保険役員︶の妻。[11]
(一)^ ab﹃幕末維新大人名事典﹄上巻︵新人物往来社、2010年︶p.581-582
(二)^ ab﹃日本社会政策の源流: 社会問題のパイオニアたち﹄保谷六郎、聖学院大学出版、1995、p112-113
(三)^ ﹃群像 第50巻﹄大日本雄辯会講談社 1995、p309
(四)^ 移民会社と地方政党--熊本国権党の植民事業を中心として佐々博雄、国士館大学文学部人文学会紀要 (15), p61-80, 1983-01
(五)^ 保田久成コトバンク
(六)^ ab﹃人事興信録2版︵明41.6刊︶﹄﹁佐久間鋼三郎﹂
(七)^ 激動期の印刷界を顧みて﹃激動佐久間長吉郎、︽復刻︾・印刷史談会︿6﹀
(八)^ 佐久間長吉郎﹃大衆人事録 第3版 ア-ソ之部﹄1930
(九)^ ﹃人事興信録 第13版(昭和16年) 上﹄﹁佐久間長吉郎﹂
(十)^ ab佐久間長吉郎谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー
(11)^ ab佐久間貞男﹃人事興信録﹄第8版、昭和3(1928)年
(12)^ 佐久間貞男﹃大衆人事録 第3版 ア-ソ之部﹄1930
参考文献[編集]
●﹃真説 上野彰義隊﹄中央公論社︿中公文庫﹀、1998年12月18日。ISBN 4-12-203309-8。