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﹃備後国風土記﹄︵びんごのくにふどき、きびのみちのしりのくにのふどき︶は、奈良時代初期に編纂された備後国の風土記。
鎌倉時代中期、卜部兼方によって記された﹃釈日本紀﹄に、﹁備後国風土記逸文﹂として﹁蘇民将来﹂の逸話が伝存している。
﹃釈日本紀﹄より﹁備後国風土記逸文﹂[編集]
備後國風土記曰 疫隅國社 昔 北海坐志武塔神 南海神之女子乎與波比爾出 座爾日暮 彼所將來二人在伎 兄蘇民將來 甚貧窮 弟將來富饒 屋倉一百在 伎 爰武塔神 借宿處 惜而不借 兄蘇民將來借奉 即以粟柄爲座 以 粟飯等饗奉 爰畢出坐 後爾經年 率八柱子還來天詔久 我將來之爲報 答 汝子孫其家爾在哉止問給 蘇民將來答申久 己女子與斯婦侍止申 即詔久 以茅輪 令着於腰上 隨詔令着 即夜爾 蘇民之女子一人乎置天 皆悉 許呂志保呂保志天伎 即詔久 吾者 速須佐雄能神也 後世爾疫氣在者 汝蘇民 將來之子孫止云天 以茅輪着腰在人者 將免止詔伎︵釋日本紀卷七︶
備後の国の風土記にいはく、疫隈︵えのくま︶の国つ社[1]。昔、北の海にいましし武塔︵むたふ︶の神[2]、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮︵いとまづ︶しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず[3]、兄の蘇民将来惜し奉りき。すなはち、粟柄[4]をもちて座︵みまし︶となし、粟飯等をもちて饗︵あ︶へ奉りき。ここに畢︵を︶へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、﹁我、奉りし報答︵むくい︶せむ。汝︵いまし︶が子孫︵うみのこ︶その家にありや﹂と問ひ給ひき。蘇民将来答へて申ししく、﹁己が女子と斯の婦と侍り﹂と申しき。即ち詔たまひしく、﹁茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ﹂とのりたまひき。詔の隨︵まにま︶に着けしむるに、即夜︵そのよ︶に蘇民の女子一人を置きて、皆悉に殺し滅ぼしてき。即ち詔りたまひしく、﹁吾は速須佐雄︵はやすさのを︶の神なり。後の世に疾気︵えやみ︶あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ﹂と詔りたまひき。︵釈日本紀 巻の七︶
(一)^ 現広島県芦品郡新市町大字戸手の江熊にある疫隅神社︵疫隈國社 ?︶。﹃風土記 日本古典文学大系2﹄ 岩波書店14刷1971年︵1刷1958年︶ p.488の脚注。
(二)^ 蕃神の武答神王の名による神名とするが、あるいは武に勝れた神の意のタケタフカミ︵武勝神︶にあてた神名かともする。﹃風土記 日本古典文学大系2﹄ p.488の脚注。
(三)^ 貸すの意。﹃風土記 日本古典文学大系2﹄ p.489の脚注。
(四)^ 貧しさを表現した言葉。﹃風土記 日本古典文学大系2﹄ p.489の脚注。
外部リンク[編集]
- 『風土記』p.315 「備後の國」武田祐吉 編 岩波書店(国立国会図書館)
関連項目[編集]