出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "内分分知" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2019年8月) |
内分分知︵ないぶんぶんち︶は、江戸時代における武家︵特に大名、旗本︶の分家形態の一つである。分家の創設の際に、主君から与えられた領知の表高を減らすことなく、新規に分家を興す形態をいう。新田分知は内分分知の形態の一つである。
本来、新規に分家を創出するには本家の領知を分知し、表高を減じて行われてきたが、分知の結果、大名[1]で表高1万石を下回ると旗本に、旗本︵寄合︶で表高3000石を下回ると小普請役に家格を低下させることになる。家格低下は、軍役や役職就任に大きく影響するため、本家の領知内で分家に分知する形態が考案された。
内分分知の形態
(一)封地を分与するが、本家の表高を減らさない内分分知
(二)封地を分与するが、収納高を本家が支給し、本家の表高は減らさない内分分知
(三)分家表高のみを届け出て[2]、収納高を本家が支給し、本家の表高は減らさない内分分知
(四)上記3の内容で、領知を表す石高ではなく、俵単位で廩米を支給[3]する内分分知
内分分知によって創出された分家は本家に強く依存し、家督相続、婚姻、嫡子嗣立など家庭内での事柄のみならず、幕府内での役職就任などにも影響を持つ。また、本家は内分分家を親族として自家内に留めることになり、しばしば、内分分家当主が本家当主の代理の立場をとる場合があった。