利用者:凡声庵/sandbox
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矢延 平六︵やのべ へいろく︶、慶長15年︵1610年︶ - 貞享2年7月1日︵1685年7月31日︶は、日本の江戸時代に活躍した土木技術家。玉川上水よりも早く、日本で初めてといわれる本格的都市型埋設上水道を敷設したと言われ、讃岐に数多くのため池を築いた。名を叶次、可次とも言う。
地元では水の恩人と讃えられ、新池では新池神社、仁池では、飛渡神社などに祭られ、高松市香川町浅野のひょうげ祭りの祭神となっている。
略歴
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●1610年、(慶長15︶生まれる。出生地は不明である。備前だとも言われている。
●1642年、︵寛永19︶下館藩主であった松平頼重が、讃岐高松藩に転封になった時、藩主に従って高松に来る。
●1644年、︵寛永21︶高松城下に、日本初と言われる本格的地下埋設式上水道施設を作る。
●1646年、︵正保3︶白鳥町︵現、東かがわ市︶に宮奥池︵みやおくいけ︶を造る。
●1649年、︵慶安2︶丸亀市飯山町法軍寺に、仁池︵にいけ︶を造る。しかし、必要以上の大きい池を作ったとの罪を着せられ、阿波へ追放される。
●1664年、︵寛文4︶近女と結婚。高松藩に戻る。
●1665年、︵寛文5︶男児太郎衛門を得る。
●1668年、︵寛文8︶米10石郷方手代。
●1669年、︵寛文9︶現在の高松市香川町浅野に新池︵しんいけ︶を造る。高松城を水攻めにするという讒言で、罪人として、阿波に追放される。この間 徳島県美馬市に坊僧池︵ぼうそう︶を造る。
●1679年、︵延宝7︶高松藩に復職。
●1682年、︵天和元︶現在のまんのう町、土器川横に滝の鼻掛井出︵たきのはなかけいで︶を作る。
●1683年、︵天和2︶高松藩を退職。
●1685年、︵貞享2︶7月1日︵旧暦︶、現在の丸亀市飯山町富熊にて病死。墓所は、富熊小学校横の山の墓地にある。
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その他
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現代美術家ヤノベケンジは、矢延平六との姻戚関係を示唆している。
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矢野部平六、矢野部伝六、兵六と書かれている文献もあるが、新池を作った﹁矢延平六﹂と、新池から水を流す場所の三谷町犬の馬場︵いんのばば︶の﹁矢野免﹂と、土地の有力者で、金の元締めの﹁矢野氏﹂とが混同されて文献に記された。[4]
脚注
[編集]- ^ 香川の水の風俗(水の恩人 矢延平六) - 香川県庁ウェブサイト
- ^ 矢延平六(高松市立浅野小学校教材)
- ^ 特別展「ヤノベケンジ シネマタイズ」ヤノベケンジ×矢延平六「リサーチプロジェクト」 - 高松市美術館ウェブサイト
- ^ 矢野氏の謎 - 凡声庵閑話
関連項目
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