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神田上水

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
神田上水

水道橋駅附近にある神田上水の碑文
延長 約63km
取水 井之頭池
東京都三鷹市井の頭1丁目)
合流 -
流域 東京都
備考 1901年明治34年)に廃止
テンプレートを表示


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159018? - 1617



稿 [1][2]


輿沿駿西
 



[ 1]1590810

稿[3]18


   
      
         










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            殿
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2

1670103[25]159018220[26]

13[27]16677[28]

16936


 

 
          
             
             
             
             
[29]

17205[30]11[31]

17227

17394


 
             
               
               
 殿
[32]

73[33]

10



1741[34]5

17685


 
   
  
              
               
 
   
            
               
               
  
 
[35]

西4[36]

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17707

18118[38]

18622

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17707[39]

[40]

[41]


 


殿




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1661 - 7231[44]



17902


   
 
  
 
  
    
      
    
              
    
        
 
 
  
     
 
  
 
  
 
  
    
    
 
  
     
 
[45]

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殿使 189225189831121901346

ギャラリー[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P44 - 45に『校註天正日記』は信濃国高遠藩内藤家が所蔵していた旧本を、栗原信充が影写し、小宮山綏介が校註を施したとされている。しかし、以前から偽書であるといわれていたので『東京市史稿 水道篇第一』の編者が内藤家及び栗原信充の子孫を尋ねたところ影写本の所在は判明しなかった。同書では『校註天正日記』はたとえ偽書であったとしても、全く信用できないとはいえず、何らかの根拠があるものとしている。
  2. ^ 『江戸名所図会』では承応年間(1652-1655)としている[7]
  3. ^ 「御茶ノ水」の湧水は御殿山台地の地下水が湧き出たもので、水が豊富だったころは1日に35000トンほど湧き出ていたというが、1955年昭和30年)ごろには水量が減り、ほぼ枯れてしまった。現在は井戸水をポンプで汲み上げて水を補充している。
  4. ^ 御茶ノ水の懸樋はかつて吉祥寺橋と呼ばれていた。橋の北側に吉祥寺があったためである。明暦の大火後、吉祥寺は駒込に移転してしまい、更に水道の懸樋があったためにいつしか水道橋と呼ばれるようになった。水道の懸樋が失われた今も地名として残っている。

出典[編集]

  1. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P43
  2. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P19 - 21
  3. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P47 - 48
  4. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P28
  5. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P56 - 57
  6. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 P22 - 26
  7. ^ 江戸名所図会 1927, p. 598.
  8. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P59 - 61
  9. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P62 - 63
  10. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P25
  11. ^ a b 新編武蔵風土記稿 関口町在方分.
  12. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P38 - 40
  13. ^ 大日本地誌大系 第1巻 御府内備考, pp. 99–100.
  14. ^ 波多野純 「上水から見た江戸の都市設計」『江戸東京学への招待〔2〕都市誌篇』 P141 - 146
  15. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P225
  16. ^ 坂田正次 『江戸東京の神田川』 P87 - 88
  17. ^ 『上水記』 P4
  18. ^ 坂田正次 『江戸東京の神田川』 P90
  19. ^ 堀越正雄 『増補版 日本の上水』 P159
  20. ^ 『上水記』 P65 - 66
  21. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 P174 - 178
  22. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 P186 - 188
  23. ^ 坂誥智美 『江戸城下町における「水」支配』 P22
  24. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 222 - 223ページ
  25. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 242ページ
  26. ^ 吉原健一郎 「町年寄」『江戸町人の研究』第四巻 193 - 198ページ
  27. ^ 吉原健一郎 「町年寄」『江戸町人の研究』第四巻 225 - 236ページ
  28. ^ 吉原健一郎 「町年寄」『江戸町人の研究』第四巻 204 - 205ページ
  29. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 272 - 273ページ
  30. ^ 近世史料研究会編 『正宝事録』第二巻 141ページ
  31. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 333ページ
  32. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 385 - 386ページ
  33. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 387 - 391ページ
  34. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 425 - 435ページ
  35. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 521 - 523ページ
  36. ^ 伊藤好一 「江戸の水道制度」『江戸町人の研究』第五巻 376ページ
  37. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 524 - 527ページ
  38. ^ 伊藤好一 「江戸の水道制度」『江戸町人の研究』第五巻 378ページ
  39. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 82 - 83ページ
  40. ^ 伊藤好一 「江戸の水道制度」『江戸町人の研究』第五巻 321ページ
  41. ^ 『上水記』45 - 46ページ
  42. ^ 『上水記』 47ページ
  43. ^ 伊藤好一 『江戸上水道の歴史』 129 - 130ページ
  44. ^ a b 『上水記』 P44
  45. ^ a b 『上水記』 P64
  46. ^ 『東京市史稿 水道篇第一』 P688 - 689
  47. ^ 江戸名所図会 1927, pp. 600–601.

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稿 1919

1952

1965

 西1975

 西1978

1996

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1987

 1995

1997

 19888

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