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あらすじ[編集]
登場人物[編集]
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武田一家[編集]
武田光司
本作の主人公。勇司、悦子の兄。金司・セキ夫妻の長男。1938年︵昭和13年︶1月27日生まれ。元々は弁護士を目指していたこともあり、中央大学法学部法律学科で1年学ぶが、新聞記者希望に変わり、早稲田大学に入り直した。1962年︵昭和37年︶3月、早稲田大学第一政治経済学部政治科を卒業後、読売、朝日、毎日などの一般試験に失敗し、最終的には放送局である文華放送に採用され放送記者となる。報道部から制作部に昇格するが、1967年︵昭和42年︶3月には報道部に戻される。しかし、小柳の勧めで同年4月1日付で営業部員となる。それ以来、以前とは比べものにならない程、業績が上がり営業マンとしてトップに立つも、1970年︵昭和45年︶末、退職したいと思うようになり3度目の辞表提出を出し、ついに退職する。退職後、サンポール物産に再就職。台湾穂高から輸入されたハイライザーを出荷するも、突如サンポール物産を解散が命じられ、とうとう解雇される。葛巻から扶桑産業の就職を勧められるが、それもつかの間僅か6ヶ月で解雇され、1972年︵昭和47年︶7月17日付でホダカ物産が設立され、社長となる。
武田和子
光司の妻。学習院大学仏文科卒業。きつい性格で、光司にもよく注意する。
武田幸太郎
憲二郎の兄。光司・和子夫妻の長男。1964年︵昭和39年︶11月4日生まれ。大卒後、丸三証券へ就職し、経済的に自立する。
武田憲二郎
幸太郎の弟。光司・和子夫妻の次男。1966年︵昭和41年︶1月23日生まれ。大卒後、東京電力へ就職し、経済的に自立する。
武田勇司
光司の弟。金司・セキ夫妻の次男。1941年︵昭和16年︶生まれ。翌年、1歳の頃、母・セキと兄・光司と一緒に渡満する。しかし、新京で栄養失調の罹病でこの世を去った。僅か4歳であった。
武田悦子
光司の妹。金司・セキ夫妻の長女。1945年︵昭和20年︶4月5日生まれ。
武田金司
光司と勇司と悦子の父。セキの夫。職業は警察官であり、1940年︵昭和15年︶、勤務先の関係で渡満する。1945年8月15日終戦直後、ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留される。1947年︵昭和22年︶、7年ぶりに帰国。その後、葛飾区新小岩で妻・セキと共に料亭﹁天平﹂を経営する。
武田セキ
光司と勇司と悦子の母。金司の妻。1914年︵大正3年︶か1915年︵大正4年︶生まれと推定される︵1967年︵昭和42年︶3月で52歳であることから︶。1942年︵昭和17年︶、夫・金司を追うように、息子の光司︵当時4歳︶と勇司︵当時1歳︶を連れて渡満する。三江省︵現‥黒竜江省北東部︶佳木斯市の市場で、﹁天平﹂という屋号で惣菜店を経営する。しかし、1945年8月15日終戦直後、﹁天平﹂は事実上倒産し、光司と勇司と悦子を連れて日本へ向かう。新京で引揚船が来るまで1年以上も滞在した。1946年︵昭和21年︶9月上旬頃、葫芦島市から引揚船に乗って舞鶴港へ帰国。それから、葛飾区新小岩で再び﹁天平﹂を経営し始める。
文華放送の関係者[編集]
小柳章三
報道部長。光司が報道部員だった頃の上司。光司との良き理解者。光司を営業部員へ転身させた︵と同時に1967年4月1日付で営業部長へ転身。翌年で局長へ昇格︶。
松木弘
報道部員。光司が報道部員だった頃、光司に﹁社長﹂と渾名をつける。光司とは早稲田の先輩だが口うるさい性格。
柘植二郎
報道部員。陰険で性格が荒く、光司が報道部員だった頃、なにかと光司に冷たく当たる。光司からは嫌われているためか、一度も口を聞いたことがない。
その他[編集]
山本香榮子
銀座のクラブ﹁由多加﹂を経営している。光司からは関心があるようで、常岡に紹介されてからしばしば光司との接待が増える程であった。それ以来、光司が真夜中に外泊される事も多くなった。代々木八幡のマンションに在住。1971年6月29日から、文華放送を退職しサンポール物産に転職した光司と同居するようになる。それから、自転車の組み立てなど同僚達と協力するようになる。
関連項目[編集]
●文化放送 - 作中の文華放送のモデル。
●山口自転車
●イトーヨーカ堂
●小田急百貨店
●長崎屋
●十字屋
●サンポール物産
●ホダカ物産
●商いの心くばり - 伊藤雅俊が著したエッセイ集。作中で実名で登場する。
●逃げない経営者たち - 佐高信が著した著書。作中で実名で登場する。