勝間田氏
勝間田氏︵かつまたし、かつまたうじ︶は日本の氏族の一つである[1]。本貫を遠江国蓁原郡勝田︵静岡県牧之原市︶の勝間田川流域一帯とする[1]。勝田、勝間、勝俣などの異表記もある[1][注釈 1]。
歴史[編集]
出自については諸伝あり、藤原南家の工藤氏の系統とする説、桓武平氏の平良文の系統とする説などがある[1]。横地氏と同族とも[3]。 保元の乱︵1156年︶の際に源義朝勢の家人として﹁遠江国の勝田﹂として言及があり、古くから源氏にしたがってきた一族とみられる。鎌倉時代には勝間田城︵牧之原市︶に拠った[1]。 室町時代には応永の乱︵1399年︶や永享の乱︵1438年 - 1439年︶では、室町幕府方の勢力として登場する[4]。文明8年︵1476年︶に駿河国の今川義忠が遠江に進出すると、勝間田氏や横地氏は今川氏に抵抗して敗れ、滅亡したという[4]。清浄寺が菩提寺と伝わる[4][注釈 2]。 この後、残党は一族の勝間田修理之亮︵伊野八郎︶とともに富士山の東の裾野へ落ち延びた。そこで林野を拓いて土着し、﹁伊野﹂が転訛して﹁印野村﹂︵現在の御殿場市印野、東富士演習場の隣接地︶となったという[5][6]。御殿場市周辺には異表記を含めた﹁カツマタ﹂姓が多い[7]。関連人物[編集]
●勝田︵かつまた︶成長[3] - 鎌倉時代初期の御家人。文治2年︵1186年︶に玄蕃助に任じられた記録がある[1]。勝田平三郎成長[3]、勝田三郎[1]、勝田平三[1]とも。 ●勝間田長清︵生没年不詳。藤原長清とも。︶ - 鎌倉時代後期の勝間田城城主。﹃夫木和歌抄﹄を編纂[8][9]。脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 平安時代に成立した﹃和名類聚抄﹄では、この地は﹁加知末多﹂または﹁加都万多﹂と表記されている︵写本によって字が異なる︶。一説では、﹁加都万﹂は湿地帯の植物の名をさし、この地の地勢に由来するという。後に﹁勝田﹂と表記するようになりこれを﹁かつまた﹂と読んだ。﹁勝間田﹂とも書いた。江戸時代には勝間田村として続いたが、明治時代になって村を編成するにあたり、かつての勝田郷の隣り合う2村のあいだでどちらが﹁勝間田村﹂を称するか論争になり、一方が﹁勝田村﹂、もう一方が﹁勝間村﹂とすることで決着した。両村はのちに合併し勝間田村となった[2]。
(二)^ 落城後、駿河にひきあげる今川義忠を勝間田氏らの残党が奇襲、今川義忠は流れ矢に当たって落命したという。これにより今川家では家督争いの内乱に陥った[4]。
出典[編集]
(一)^ abcdefgh平凡社,﹃世界大百科事典 第2版﹄,コトバンク版 2018年5月13日閲覧。
(二)^ ﹃角川日本地名大辞典22静岡県﹄,p287-288﹁勝田﹂、﹁勝間﹂、﹁勝俣﹂、﹁勝間田﹂、﹁勝間田川﹂
(三)^ abc﹃静岡大百科事典﹄,p163﹁勝間田城跡﹂
(四)^ abcd牧之原市観光協会,勝間田氏 (今川氏と対決した豪族) 2018年5月14日閲覧。
(五)^ ﹃静岡大百科事典﹄,p163﹁勝間田﹂
(六)^ ﹃角川日本地名大辞典22静岡県﹄,p156﹁印野﹂
(七)^ “カツマタさん|2018年7月28日|出没!アド街ック天国”. テレビ東京. 2022年1月27日閲覧。
(八)^ 講談社,﹃デジタル版 日本人名大辞典+Plus﹄,2015,コトバンク版 2018年5月13日閲覧。
(九)^ 朝日新聞出版,﹃朝日日本歴史人物事典﹄,1994,コトバンク版 2018年5月13日閲覧。