千賀鶴太郎
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千賀 鶴太郎︵せんが つるたろう、安政4年2月11日︵1857年3月6日︶ - 1929年︵昭和4年︶3月19日︶は、明治期の法学者。雅号は﹁孤松庵主人﹂﹁蝉水漁史﹂。従三位勲二等。
経歴[編集]
備前国生まれ。9歳で岡山藩藩学に入り、遺芳館︵池田光政の諡・﹁芳烈公﹂に因む︶で修行し、1874年︵明治7年︶に上京。小松原英太郎、関新吾、山脇巍らと上京し慶應義塾に学ぶ。1876年︵明治9年︶から1880年︵明治13年︶まで慶應義塾の派遣職員となって、中村敬宇の同人社に入りのちに塾頭となる。1884年︵明治17年︶から1899年︵明治32年︶までドイツに滞在。ベルリン大学に学び、訪独中の内相山縣有朋に都筑馨六を紹介される。1897年︵明治30年︶ベルリン大学法科学位を受ける。1899年︵明治32年︶に京都帝国大学法科大学が開設すると、羅馬法担当となり京都法政専門学校︵現‥立命館大学︶、関西法律学校教授を兼任、明治34年︵1901年︶に法学博士。1907年︵明治40年︶京都帝国大学評議員。1914年︵大正3年︶第三高等学校講師、1916年︵大正5年︶高等官一等一級、1919年︵大正8年︶正四位、1923年︵大正12年︶京都帝国大学名誉教授。1929年︵昭和4年︶に死去し、従三位勲二等を追贈された。栄典[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
『慶應義塾入社帳 第一巻』688頁