古天明平蜘蛛
古天明平蜘蛛︵こてんみょうひらぐも︶は、戦国時代の武将松永久秀が所有していた茶釜。
平蜘蛛を割る松永久秀。月岡芳年画
平蜘蛛を割る松永久秀。落合芳幾画
松永久秀は織田信長へ臣従した際に名物・九十九髪茄子を進呈したが、それ以降、信長から幾度も所望された平蜘蛛に関しては断っている。後に久秀は信長に侵攻され信貴山城にて自害するが︵信貴山城の戦い︶、﹃山上宗二記﹄によれば、この際に平蜘蛛は失われたという[1]。太田牛一の﹃大かうさまくんきのうち﹄では、久秀自身の手で平蜘蛛を打ち砕いたとされる[2]。
﹃松屋名物集﹄には多羅尾光信が落城した信貴山城から﹁平蛛ノ釜ツキ集メ持ナリ﹂と破片を集めて復元した記述があり[1]、津田宗及の﹃天王寺屋津田宗及茶湯日記他会記﹄によれば天正8年︵1580年︶閏3月13日に若江三人衆の一人である多羅尾綱知が﹁平くも釜﹂を使用したという記載がある[1]。
江戸時代初期に成立した軍記物﹃川角太閤記﹄[2]や﹃ 老人雑話﹄[1]では、久秀の首と平蜘蛛が鉄砲の火薬で爆砕されたとし、享保年間の﹃茶窓閒話﹄でも踏襲された[1]。﹃川角太閤記﹄では﹁平蜘蛛の釜と自分の首は信長に見せるな﹂と命令したとされる[3]。
2018年まで静岡県浜松市西区 (現‥中央区) 舘山寺町に存在していた浜名湖舘山寺美術博物館は﹁平蜘蛛釜﹂と伝わる茶釜を所蔵していた。その由来によれば、信貴山城跡を掘り起こした際にこの茶釜が出土しており、信長の手に渡り愛されたものだという。
また、松永久秀と親交のあった柳生家の家譜﹃玉栄拾遺﹄には、久秀が砕いた平蜘蛛は偽物で、本物は友である柳生松吟庵に譲ったという記述がある。[4]