大前憲三郎
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大前 憲三郎 おおまえ けんざぶろう | |
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生誕 |
1893年11月26日 日本、奈良県吉野郡十津川村 |
死没 | 1952年4月23日(58歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1915 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
大前 憲三郎︵おおまえ けんざぶろう、1893年︵明治26年︶11月26日[1] - 1952年︵昭和27年︶4月23日[1]︶は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴[編集]
奈良県十津川村湯之原に大前憲保の三男として生まれる[2]。湯之原尋常小学校を卒業し、1912年︵明治45年︶十津川中学文武館︵現奈良県立十津川高等学校︶に学び、卒業後伏見の工兵第十六大隊に士官候補生として入隊[2]。1915年︵大正4年︶5月25日に陸軍士官学校︵27期︶を卒業し、同年12月25日に工兵少尉に任ぜられ、工兵第十六大隊付となる[3]。1916年︵大正5年︶11月27日に陸軍砲工学校︵24期︶高等科を卒業[4]し、更に員外学生として在学。1919年︵大正8年︶4月15日に工兵中尉に昇進[5]、1922年︵大正11年︶3月31日には東京帝国大学理学部物理学科を卒業した[6]。 1924年︵大正13年︶8月20日に工兵大尉に昇進[7]し陸軍築城部本部部員等を経て、1925年︵大正14年︶5月1日に陸軍砲工学校教官兼任となる[8]。1931年︵昭和6年︶8月1日工兵少佐に昇進[9]し陸地測量部班長に補せられる。1935年︵昭和10年︶8月1日工兵中佐に昇進[10]し、陸軍技術本部部員等を経て、陸地測量部三角科長在任中の1938年︵昭和13年︶7月15日に工兵大佐に昇進[11]。 その後、独立工兵第二十五連隊長を経て、西部軍兵器部長在任中の1942年︵昭和17年︶8月1日に陸軍少将に昇進。更に陸地測量部長を歴任し、1945年︵昭和20年︶4月30日に陸軍中将に昇進[12]し終戦を迎えた[1]。 1947年︵昭和22年︶11月28日、公職追放仮指定を受けた[13]。栄典[編集]
- 1916年(大正5年)3月20日 - 正八位[14]
- 1919年(大正8年)6月20日 - 従七位[15]
- 1924年(大正13年)8月15日 - 正七位[16]
- 1929年(昭和4年)
- 1934年(昭和9年)
- 1938年(昭和13年)
著作[編集]
脚注[編集]
(一)^ abc﹃日本陸軍将官辞典﹄160頁。
(二)^ ab十津川探検 ~十津川人物史~﹁大前憲三郎﹂
(三)^ ﹃官報﹄第1022号、大正4年12月27日。
(四)^ ﹃官報﹄第1898号、大正7年11月30日。
(五)^ ﹃官報﹄第2008号、大正8年4月16日。
(六)^ ﹃官報﹄第2935号、大正11年5月17日。
(七)^ ﹃官報﹄第3599号、大正13年8月21日。
(八)^ ﹃官報﹄第3806号、大正14年5月2日。
(九)^ ﹃官報﹄第1378号、昭和6年8月3日。
(十)^ ﹃官報﹄第2575号、昭和10年8月2日。
(11)^ ﹃官報﹄第3460号、昭和13年7月16日。
(12)^ ﹁第100号 昭和20年5月1日 陸軍異動通報︵防衛省防衛研究所︶﹂ アジア歴史資料センター Ref.C12120941100
(13)^ 総理庁官房監査課編﹃公職追放に関する覚書該当者名簿﹄日比谷政経会、1949年、﹁昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者﹂122頁。
(14)^ ﹃官報﹄第1089号、大正5年3月22日。
(15)^ ﹃官報﹄第2064号、大正8年6月21日。
(16)^ ﹃官報﹄第3602号、大正13年8月25日。
(17)^ ﹃官報﹄第775号、昭和4年7月30日。
(18)^ ﹃官報﹄第875号、昭和4年11月28日。
(19)^ ﹃官報﹄第2131号、昭和9年2月10日。
(20)^ ﹃官報﹄第2822号附録、昭和11年6月1日。
(21)^ ﹃官報﹄第2536号附録、昭和10年6月18日。
(22)^ ﹃官報﹄第2357号、昭和9年11月8日。
(23)^ ﹃官報﹄第3516号、昭和13年9月20日。
(24)^ ﹃官報﹄第3513号、昭和13年9月16日。
参考文献[編集]
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
外部リンク[編集]
軍職 | ||
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先代 小倉尚 |
陸地測量部長 第18代:1943年10月15日 - 1945年8月31日 |
次代 廃止 |