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大山 綱栄︵おおやま つなひで︶は、江戸時代中期の薩摩藩鹿児島城下士。家格は初め小姓与から、のち一代新番。宝暦6年10月︵1756年︶当時の石高は71石。
父の六郎兵衛綱広︵? - 享保12年︵1729年︶6月25日︶は寺社方取次をつとめて一代新番となっていた。子の綱道の代で代々小番︵小番の家格を世襲できる身分︶になる。藩職は表小姓、御側小姓、中通御目付︵[1]、喜界島代官。側小姓時代は藩主島津継豊に近侍。その参勤交代に同行して江戸に数回赴く。中御目付時代に家格が御小姓与から一代新番に昇格。
宝暦6年︵1756年︶島津重豪の藩主就任時に、薩摩藩国目付になった京極兵部高主、青山成親らに提出するために宝暦6年10月に改めた薩摩藩分限帳では﹁小納戸役、大山文左衛門 71石 外蔵米48俵[2]﹂として登場。この時には、通称が文左衛門になり、石高は71石になっていたようである。なお、子の大山綱道も﹁大山休左衛門﹂として同資料に登場する。宝暦9年︵1759年︶、喜界島代官として喜界島に渡海する。当時の通称は文左衛門。宝暦11年︵1761年︶、任期満了につき鹿児島に戻る。天明8年︵1788年︶2月23日、死去。享年74。
家族・親族[編集]
●父‥大山六郎兵衛綱広︵寺社方取次を勤める︶
●子女‥大山綱道
(一)^ この職、御供目付が正徳3年3月に改称したもの。のちの天明3年、御供目付に名称戻る。
(二)^ なお、蔵米48俵は﹁薩藩政要録﹂を見ると役料であることがわかる
参考文献[編集]
●原口虎雄監修﹃薩州嶋津家分限帳﹄︵青潮社鹿児島県立図書館蔵︶
●尾野実信﹃元帥公爵 大山巌﹄︵鹿児島県立図書館蔵︶
●﹃奄美資料集成﹄︵鹿児島県立図書館蔵︶
●﹃﹁鹿児島県資料集1薩藩政要録﹄