大島金太郎
表示
大島 金太郎︵おおしま きんたろう、明治4年9月18日︵1871年10月31日︶[1] - 昭和9年︵1934年︶1月27日[1]︶は、日本の農学者。
1880年頃の札幌農学校の校舎、一番手前が寄宿舎、その奥が復習講 堂︵1Fは食堂︶、一番奥が化学講堂
1898年︵明治31年︶より農芸化学研究のためアメリカ合衆国・ドイツに留学し、アメリカでは農務省技師嘱託となった[4]。1903年︵明治36年︶に帰国して札幌農学校教授となり、翌年から北海道庁技師を兼ねた[1]。1907年︵明治40年︶、論文提出により農学博士の学位を得た。同年、札幌農学校が東北帝国大学農科大学に改称し、東北帝国大学教授となる[1]。1918年︵大正7年︶、東北帝国大学農科大学が北海道帝国大学農科大学に改称し、北海道帝国大学教授となった[1]。
北海道帝国大学︵1934年撮影︶
現在の北大農学部
1920年︵大正9年︶、台湾総督府技師となり、台湾総督府中央研究所農業部長として、サトウキビなどの品種改良に努めた[1]。また、台湾総督府農林専門学校校長事務取扱、台湾総督府高等農林学校校長、台北高等農林学校などを務めた[1]。その後台北帝国大学創立委員となり、1928年︵昭和3年︶に台北帝国大学が成立すると、教授・農学部長に就任した[1]。墓所は多磨霊園。
経歴[編集]
長野県諏訪郡宮川村︵現在の茅野市︶で[2]、先代・大島金太郎の長男として生まれる[3]。1893年︵明治26年︶、札幌農学校を卒業し、1895年︵明治28年︶に札幌農学校の助教授に就任した[1]。栄典[編集]
- 位階
- 勲章