奥村綱雄
おくむら つなお 奥村 綱雄 | |
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学生時代の奥村綱雄 | |
生誕 |
1903年(明治36年)3月5日 日本 滋賀県甲賀郡信楽町(現:甲賀市) |
死没 | 1972年(昭和47年)11月7日 |
国籍 | 日本 |
出身校 |
大阪高等商業学校(現:大阪市立大学) 京都帝国大学経済学部 |
職業 | 野村證券社長 (1948-1959)・会長 (1959-1968) |
奥村 綱雄︵おくむら つなお、1903年︵明治36年︶3月5日 - 1972年︵昭和47年︶11月7日︶は、昭和期の実業家。野村證券元社長・会長。野村證券中興の祖といわれる。
来歴・人物[編集]
1903年︵明治36年︶3月5日、滋賀県甲賀郡信楽町︵現‥甲賀市︶に生まれる[1][2]。生家は代々信楽焼の窯元をやっていたが、父は綱雄が6歳の時に大阪堺に移住し菓子の製造販売業を始めた[2]。 1923年︵大正12年︶大阪高等商業学校︵現‥大阪市立大学︶卒業[3]。1926年︵大正15年︶に京都帝国大学経済学部卒業後、野村證券へ入社[1][2]。1936年に満州視察団に参加し、1945年に取締役に就任した。1946年︵昭和21年︶公職追放による経営陣退陣の中、綱雄は1947年︵昭和22年︶に専務、1948年︵昭和23年︶には第3代社長に就任した[1][2]。証券取引法に基づく証券業者として登録。1951年︵昭和26年︶に連合国との交渉の末、証券投資信託法を実現させ、委託会社の免許を受けることに成功し、財閥指定を受けた﹁野村﹂の社名を守った[1][2]。1959年︵昭和34年︶に社長の座を瀬川美能留に譲り会長に就任し[2]、1968年︵昭和43年︶に相談役に退いた。 その他には東京証券取引所理事、経済団体連合会外資問題委員会委員長、ボーイスカウト日本連盟理事長なども務めた。石坂泰三経団連会長と共に資本自由化促進の旗振り役を務めた[1]。1972年︵昭和47年︶11月7日死去、享年69。語録[編集]
●﹁ダイヤモンドは、中央の面をかこみ、多くの面が多角的に集まって底知れぬ光を放つ。会社経営もまたかくありたい。一人の独裁でもいけないし、悪平等でもいけない。個が集まって全を形成するが、個は全あっての個であって、個あっての全ではない﹂[4]関連事項[編集]
奥村綱雄に係る書籍 ●﹁財界の顔﹂︵池田さぶろ 講談社 1952年︶ ●﹁世に出るまで 私の実業勉強﹂ P55﹁不況時にやっとみつけた就職口 奥村綱雄﹂︵実業之日本社 1960年︶ ●﹁若き日の社長 現代事業家の人間形成﹂︵海藤守著 徳間書店 1962年︶ ●﹁財界-日本の人脈﹂︵読売新聞社 1972年︶ ●﹁中央公論 88(1) 1973年1月﹂ P190﹁組織的相場師 奥村綱雄の生涯 三鬼陽之助﹂︵中央公論新社︶ ●﹁追悼奥村綱雄﹂︵野村證券追悼奥村綱雄編集委員会 1973年︶ 著作 ●﹁株式﹂︵奥村綱雄著 高山書院 1948年︶ ●﹁株式投資の手引﹂︵奥村綱雄著 実業之日本社 1955年︶ ●﹁僕のダイヤモンド経営﹂︵奥村綱雄著 実業之日本社 1961年︶ ●﹁私の履歴書12集﹂ ﹁奥村綱雄﹂の項︵日本経済新聞社 1969年︶ ●﹁わが半生涯﹂︵奥村綱雄 読売新聞社 1971年︶脚注[編集]
関連項目[編集]
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