宇垣工作
宇垣工作︵うがきこうさく︶とは、日中戦争打開のために、1938年5月から始まった第1次近衛内閣の外務大臣宇垣一成︵大日本帝国陸軍大将︶による和平工作である。イギリスの仲介によるこの工作は失敗し、同年9月の宇垣の外相辞任につながった[1]。
石射猪太郎
1937年︵民国26年、昭和12年︶7月7日の盧溝橋事件をきっかけに、日中戦争︵支那事変︶が始まった。事変初期段階での収拾に失敗した近衛文麿首相は、1937年11月から12月にかけてのトラウトマン工作︵駐華ドイツ大使オスカー・トラウトマンの名にちなむ︶の失敗を受け、軍部の強硬論の影響もあって、1938年1月、﹁爾後国民政府ヲ対手トセズ﹂︵今後、蔣介石の国民政府を交渉相手にしない︶という趣旨の近衛声明︵第一次︶を発表し、和平の可能性をみずから断ち切ってしまった[1][2][3][注釈 1]。日中戦争の泥沼化が懸念されるなか、事態を憂慮していた宇垣一成は、1938年5月の近衛内閣改造の際、広田弘毅の後任の外務大臣としての入閣を請われると、日中和平交渉の開始や﹁対手とせず﹂方針の撤回を条件に就任した[1]。この内閣改造は、宇垣外相によって事変の終結をはかることをねらいとしており、新任の陸軍大臣を不拡大派の板垣征四郎︵石原完爾の人脈︶としたのも同様の意図にもとづいていた[1]。内閣改造後の近衛は、﹁自分も広田も、あまりに蔣政権打倒ということを徹底的に言い過ぎた﹂﹁自分が︵首相を︶辞めて、宇垣にやってもらいたい﹂と周囲に洩らしていたという[1]。外務省東亜局長の石射猪太郎は就任まもない宇垣に﹁何とぞ大臣のお力で﹁国民政府ヲ対手トセズ﹂を乗り切っていただきたい﹂と和平への努力を要望し、宇垣もそれに賛意を示した。
孔祥熙
外相に就任した宇垣は、早々に近衛声明の再検討を表明し、駐日英国大使のロバート・クレイギーや駐華英国大使アーチボルド・クラーク・カーなどを介し、中村豊一香港総領事を通じて孔祥熙国民政府行政院長、孔の秘書喬輔三らと極秘に接触し、蔣介石政権側からの現実的な和平条件引き出しに成功した。しかし、これら宇垣による工作は、陸軍の出先や石原系をのぞく陸軍革新派の強い反対を受けた[1]。また、近衛首相は蔣介石の下野など和平条件吊り上げの姿勢を見せ、第一次近衛声明も維持された。出先陸軍は北京︵当時は北平︶や南京に対日協力政権を樹立させ、6月には武漢作戦・広東作戦を発令して戦線を拡大しており、国内では、興亜院の設置を働きかけ、対中外交の主導権を外務省から奪うことを画策、近衛首相もこれに賛成した[1]。こうして、近衛首相からも梯子を外された形となり、1938年9月、宇垣は外相を辞任した。宇垣は石射に﹁事変の解決を、自分に任せるといっておきながら、今に至って私の権限を削ぐような近衛内閣に留まり得ないのだ﹂と語ったという。 石射猪太郎もまた宇垣大臣の輔弼が不充分であった責を感じ、東亜局長を辞任した。なお、宇垣は在任中に発生したソビエト連邦との国境紛争︵張鼓峰事件︶を外交交渉によって停戦させている。