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宣懿皇后︵せんいこうごう、? - 956年︶は、後周の世宗柴栄の最初の皇后︵2番目の正妻︶。姓は符氏。2番目の皇后となった宣慈皇后の姉で、大符皇后︵だいふこうごう︶とも呼ばれる。北宋の太宗の妻符氏︵太宗の即位前に死去して懿徳皇后と追号された︶の長姉でもある。
陳州宛丘県の人。魏王符彦卿︵中国語版︶︵符存審の四男︶の長女。はじめ李守貞の子の李崇訓にとついだ。李守貞が乱を起こすと、後漢は郭威︵後の後周の太祖︶を討伐に向かわせた。李崇訓は符氏を自ら手にかけて殺害しようとしたが、符氏は李崇訓から身を隠した。その後、李崇訓は自害した。符氏は郭威の兵を一喝したので、軍士は迫ることができなかった。符氏は父の家に帰された。
その頃、柴栄は1番目の正妻︵劉氏︶を亡くしていたため、符氏は柴栄と結婚し、衛国夫人となった。柴栄が即位すると、皇后に立てられた。
柴栄は怒りっぽく、後になって後悔することが多かったが、柴栄が側近に怒りを浴びせようとするたびに、皇后が顔色をうかがってなだめ、また柴栄の意図をよく理解したので、ますます重んじられた。
柴栄が淮水地方に親征したとき、皇后は諫めたが、聞き入れられなかった。軍は功を挙げず、暑熱と大雨にあって苦しみ、皇后は憂いのあまり病にかかって崩じた。
伝記資料[編集]