宮坂勝
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宮坂 勝︵みやさか まさる、1895年︵明治28年︶1月1日 - 1953年︵昭和28年︶4月10日︶は、明治から昭和にかけての洋画家[1]。
長野県南安曇郡倭村︵現:松本市︶生まれ。旧制松本中学︵現長野県松本深志高等学校︶を経て1919年︵大正8年︶東京美術学校(現‥東京藝術大学)西洋画科卒業。1923年︵大正12年︶フランスに留学し、アカデミー ・モデルヌでオトン・フリエスに師事、1927年︵昭和2年︶帰国。母校中学の美術教師となった。
その後国画創作協会展(国画会)に作品の出品を勧められ出品。第6回展にて奨励賞を受賞[2]、同会会員となる。1931年︵昭和6年︶帝国美術学校(現‥武蔵野美術大学)教授となり、後進の指導とともに、油絵の普及に努めた。1945年︵昭和20年︶第二次世界大戦の東京大空襲で東京の自宅を焼失し、生家へ疎開。1946年︵昭和21年︶第1と第2回日展で特選を受賞。同年、信州美術会︵長野県美術展︵県展︶の団体︶を結成し幹事、審査員となり、郷里の美術の発展に尽くした。
1953年︵昭和28年︶4月10日死去。享年58歳。同年松本市から地方文化向上への功績に功労賞を贈られた。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『長野県歴史人物大事典』 郷土出版社、1989年