山田武甫
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山田 武甫︵やまだ たけとし、1832年︵天保2年12月[1]︶ - 1893年︵明治26年︶2月23日[2][注 1]︶は、明治時代の政治家。養蚕家。衆議院議員︵2期︶。敦賀県令。本姓は牛島、幼名は五次郎[3]。
経歴[編集]
熊本藩士の家に生まれる[3]。1838年︵天保9年︶藩校時習館に入校[3]。1850年︵嘉永3年︶横井小楠の門に入り[4]、陽明学を学び武術を修めた[1]。1852年︵嘉永5年︶22歳の時、山田家を継いだ[5]。戊辰戦争が勃発すると熊本藩会計権判事に任ぜられ、同少参事を経て[6]、1874年︵明治7年︶敦賀県令に就任した[7]。 1876年︵明治9年︶敦賀県廃止と同時に帰郷し[7]、蚕業会社社長となり、さらに共立学舎を創立し後進の育成に尽くした[1]。その後、熊本県師範学校長となった[1]。1890年︵明治23年︶7月の第1回衆議院議員総選挙では熊本県第5区から出馬し当選[1]。弥生倶楽部に所属し、つづく第2回総選挙でも当選したが[1]、在任中に病死した[2]。脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『議会制度七十年史 第11』534-535頁では2月25日没。