川田芳子
かわだ よしこ 川田 芳子 | |
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本名 | 川田 芳子 |
別名義 | 川上 芳子 |
生年月日 | 1895年10月17日 |
没年月日 | 1970年3月23日(74歳没) |
出生地 | 日本 新潟県新潟市、現:中央区 |
死没地 | 日本 埼玉県草加市 |
職業 | 女優 |
ジャンル | 映画、舞台 |
主な作品 | |
『島の女』 『母』 |
川田 芳子︵かわだ よしこ、1895年10月17日 - 1970年3月23日︶は、大正・昭和期の女優である。日本映画草創期の人気女優であった。
映画﹃妖婦五人女﹄︵1926年︶宣伝用写真から。左から、栗島すみ 子、松井千枝子、川田芳子︵中央︶、筑波雪子、柳さく子
川田芳子と養女︵1948年︶
1895年︵明治28年︶10月17日、新潟市の花街・古町に踊りの師匠の娘として生まれた。11歳のとき、一家で上京し、長唄を五代目杵屋勘五郎に、舞踊を二代目藤間勘右衛門に師事した。新橋から芸妓になった後、川上貞奴に預けられ、﹁川上芳子﹂の芸名で貞奴一座の﹃八犬伝墨田の高楼﹄︵帝国劇場︶で初舞台を踏んだ。以降、貞奴と行動を共にし、新派の舞台で活躍した。
松竹の新派などを経て、1920年︵大正9年︶、その美貌をかわれて創立早々の松竹蒲田撮影所にスターとして迎えられる。同年、ヘンリー・小谷監督の﹃島の女﹄に主演、スター女優の第1号となった。当時の人気俳優諸口十九とコンビを組み共演作を次々と発表、この二人の人気は、栗島すみ子・岩田祐吉のコンビと並んで松竹蒲田のドル箱コンビだった。
モダンな華々しさが魅力の栗島とは対照的に、純日本的なしとやかさを魅力に、日本的でおとなしいものの芯はしっかりした女性像を演じて、人気を得、栗島、五月信子と並ぶ初期の松竹蒲田の看板女優として活躍した。賀古残夢監督の作品の常連だったが、賀古が松竹を退社した後は野村芳亭監督に重用され、当時のベストセラーの鶴見祐輔の原作を映画化した1929年︵昭和4年︶の野村監督の﹃母﹄では、万人の涙を誘った。また、﹃清水次郎長﹄などでは勝見庸太郎と共演。1923年︵大正12年︶、関東大震災により撮影所が下加茂に移るが、翌年蒲田に戻り、川田もそれに準じた。その後、諸口とのコンビで﹃赤坂心中﹄などに主演したほか、主に時代劇で活躍した。1929年には、栗島、岩田祐吉、藤野秀夫らと共に大幹部に昇進した。
1930年︵昭和5年︶以降は、母親役で活躍したが、1935年︵昭和10年︶に送別映画﹃母の愛﹄を最後に映画界を引退した。引退後は日本舞踊市山流の名取などを務め、新派の舞台に出演したり戦後に一時﹃鐘の鳴る丘﹄や﹃悲恋模様﹄などの映画に出演したこともあったが、その後は養女と二人でひっそりと暮らしていた。晩年はその養女にも先立たれ、最期は草加市のアパートで一人で迎えた。1970年︵昭和45年︶3月23日、心臓麻痺により死去。74歳没。遺体は翌日、アパートの大家によって発見された。
来歴・人物[編集]
代表作[編集]
- 島の女(1920年)
- 断崖(1921年)
- 生さぬ仲(1921年)
- 金色夜叉(1922年)
- 海の極みまで(1922年)
- 白鳥の死(1922年)
- 女と海賊(1923年)
- 寛一と満枝(1923年)
- 女殺油地獄(1924年)
- 女難(1925年)
- 小幡小平次(1925年)
- 修羅八荒(1926年)
- 花井お梅(1926年)
- 魔道(1927年)
- 不滅の愛(1928年)
- 多情仏心(1929年)
- 母(1929年)
- 母の愛(1935年)
- 鐘の鳴る丘(1949年)
- 悲恋模様(1949年)
関連書籍[編集]
- 大竹啓子『七色の虹 - 舞台と映画の四十五年・女優・川田芳子物語』課外教室社、1958年
- 升本喜年『かりそめの恋にさえ - 女優・川田芳子の生涯』文藝春秋 1985年11月